連載コラム/富裕層「あ・い・う・え・お」の法則
第22回
ここのところ海外出張が多く、ふとしたことでフィランソロピーについて考えさせられることがありました。サンフランシスコでの話です。坂道の多いサンフランシスコでは坂の上のほうでなくダウンタウンに近い方の場所でよくホームレスの方々を見かけます。正直彼らが本当にホームレスなのか否かわからないところもありますがここでは敢えてそのような言い方をさせていただくことにします。私も仕事柄世界の大都市に出張が多いのですが、サンフランシスコでは非常に直接的な物乞いを多数受けました。彼らはお店の前で待ち構えていてチェンジ(おつりでもらった小銭)をねだってくるのが常でした。サンフランシスコではホテルやレストランなどの館内が禁煙で喫煙すると罰せられることもあり、屋外で喫煙している人を多数見かけますが、喫煙している人をみると近くにいってたばこをねだるような光景にも何度も出くわしました。
与える精神、いただく精神が双方存在するのは特に否定もしないのですが、私はどうしても彼らをみて違和感を感じざるを得ませんでした。なぜなら、それらの行為がある種のビジネスのように見えて仕方がなかったからです。無論私の勘違いの可能性も否定できないことはここで申し添えておきますが、「見受けられ方」というのは言わずもがな重要なことで、もしかしたら助けることのできる本当に困っている人たちでなく、それほど困っていない人たちにまで不労所得を流通させてしまう手段にもなりうる・・・、それがフィランソロピーの抱えている現実のひとつであると痛感しました。本件に限らず善意の集まりであるところの多額の寄付金などが無駄に使われてしまっている現実もまた一部のこととして受け止めねばならないことでしょう。税金ですら「無駄遣い」という言葉が飛び交っている昨今ですから致し方ない面があります。もっとも税金に至っては無駄遣いという言葉がでてくることに最近違和感を覚えなくなってきてしまっていますが、そもそも相当おかしな話のはずです。
少し脱線してしまいました。先月の本稿でも述べさせていただきましたが、「誰でもできることを仕組みにすることこそ持続可能性の最たるもの」のはずで、「フィランソロピー」とは「簡単なもの」で「誰でも取り組めるもの」であることを言い続けることが重要であると感じます。しかしサンフランシスコのホームレスと思われる方々の行動を見るにつけ、実際には楽をしてお金を手に入れるような、フィランソロピーの名前や精神を巧妙に利用した手口が増えてきてしまっているような気もします。人を助ける慈悲の精神という観点では、誰でもできることのレベルは、たとえばおつりを寄付ボックスに入れて寄付する行為とお店の前にいるホームレスにおつりをあげることとさして変わりがありません。むしろ後者のほうがダイレクトなのかもしれません。しかしながらこれは否定されなければならないものでしょう。甘えに根ざすフィランソロピーの悪用は決してあってはならないことだと思うのです。