連載コラム/富裕層「あ・い・う・え・お」の法則
第24回
今回は私が教鞭をとる学校法人文化学院の学生のフィランソロピーについての若者の意見をご紹介しましょう。
まずは2年生の三戸部槙吾君の意見。
《今の若者にフィランソロピーについてどう思うか、と聞いてみても、その答えを即答できる人はたぶんいないでしょう。私もその一人です。興味関心以前に、フィランソロピーという言葉があまりにも学術的に聞こえてしまって、何を指す言葉なのかが理解しにくいですから。篤志(とくし)と訳してみても、やはり小難しい印象はぬぐえません。言葉の力というのは大きいもので、それを聞いて一度分からないと思ってしまえば、少なからず抵抗を持って接してしまいます。そのせいで、言葉の知名度が思想の影響力を相対的に下げてしまうのではないか、という危惧も抱きます。ただ、私はそれでもいいと思っています。重要なのは言葉が浸透することではありません。精神が浸透することです。そういう意味では、フィランソロピーの精神は既に十分な広がりを見せているといっていいでしょう。そこで私は、世界中のフィランソロピストの活動に敬意を払って、こんな定義づけをしてみました。「フィランソロピーとは、絆をつくるための活動である」と。》
続いて1年生の丸橋美樹さんの意見。
《先日駅に向かう満員のバスに乗っている私は隣に立っていた中年の男性に言いがかりをつけられ絡まれるというトラブルに直面しました。バスの中は混んでいて、周りには人が沢山居る状態でトラブルに巻き込まれたときの孤独感を初めて味わいました。運転手や周りの乗客に助けをもとめる為何度か運転席にむけ声をかけたのですが、当然のように見て見ぬふりをされました。そのあまりの当然といったそぶりに私という人間がこのバスの中に存在さえしていないような気持ちになりました。初めて見て見ぬふりをされる立場に立たされた私は、そのあまりの寂しさに愕然としてしまいました。目が合っていても私が見えていないような顔をする乗客たちや、ぎゅうぎゅう詰めだったはずのバスがいつのまにか私と中年男性のまわりだけぽかんと大きく空間が空いていたりと、周りの乗客の冷たさに怖くなってしまいました。ですが、バスを降りた私に声をかけ肩を抱いて慰めてくれた子ども連れのお母さんがいました。男性のあまりの理不尽さに気の毒そうに微笑みかけてくれた女性も居ました。その人たちには私が見えているんだとほっとしたのを覚えています。些細なことでも優しくしてもらえば人は嬉しくなります。小さなことで良いです。人の立場になって、その人がどうしてもらえたら救われるのかと考えてみて、自分に出来ることをするのが、現代人の人助けの形だと今は思っています。》
中略が多いのが申し訳ないですが、若者だってこんな「あ・い・う・え・お」を考えているんですね。