特別寄稿

Date of Issue:2021.8.1
特別寄稿/2021年8月号
まちなが・としお
 
1947年東京都生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業、1971年NHK入局。「おはようジャーナル」キャスターとして教育、健康、福祉といった生活に関わる情報番組を担当。2004 年から8年間にわたり「福祉ネットワーク」キャスターとして、うつ、認知症、自殺対策などの現代の福祉をテーマに取り組み、共生社会の在り方をめぐり各地でシンポジウムも開催。現在は、フリーの福祉ジャーナリストとして高齢社会や地域福祉をテーマにした執筆、講演、フォーラム開催を中心に活動している。
本を読む少女は時代を超えて微笑む
~読書体験という物語~
福祉ジャーナリスト
町永 俊雄
 絶海の孤島に一冊の本を持っていくとしたら、それは何か、と言う設問があって、それは歎異抄、と言う人もいれば聖書という人、ある詩集とする人などそれぞれだ。
 なるほどね。でも絶海の孤島にひとりなのだから、そこは火のおこし方や食べられる野草の見分け方と言ったサバイバルの本がいいに決まっているじゃないか、とか言う私は相当のすれっからしなのである。本を読むということには、実の用を超えたもう少し違う何かがあるにちがいないと誰もが思っている。
 かく言う私にも、遥かな記憶の向こうに本に関わる忘れられない光景がある。
 いつのことだったか、それは青春と呼ばれるただただ思い惑うだけの時代に、追い立てられるようにして関東平野を突き抜ける郊外電車に乗っていた。
 昼過ぎだったかあいまいな時間に走り続ける電車に乗客はまばらで、ふと気づくと向かいの座席に本を読む少女がいた。一心に本を見つめている。窓の外には田植えの終わった緑が流れ、逆光にうつむいた少女の顔がページからの照 り返しに映え、ひかる瞳が活字を静かになぞり、窓からの風が気まぐれに少女の髪を頬に揺らす。
 何の本を読んでいるのだろう。気づかれないように彼女を視野に収めながら、ずっとそのことを思っていた。何をあんなに一心に読んでいるのだろう。
 やがてどこかの田園風景の広がる駅のホームに少女は降りていった。
 少女がいなくなって一層ガランとした郊外電車に揺られながら、初めて気づく。彼女が読んでいた本を思うことで、私はあの少女をひたすら想っていたのである。
 時過ぎて、あの時少女に声をかけていたら私の人生は今とは違っていただろうかと思うことがある。「何を読んでいるの」とひとこと声をかけたら、今の私の人生の風景は変わっていたのだろうか。振りむく少女、いぶかしげな表情、本のことだと知ると微笑みにほぐれ、電車に揺られながら最近読んだ本のことなどを語り合うふたりの郊外電車の時間。
 変えようのない今の現実があるからこそ、そんな想像が許されるのかもしれない。本を語ると言う主題なら、少女との世界の扉も開いたのかもしれない。
 人生にはいくつもの分岐点が隠されていて、その無意識の選択が人生をかたちづくる。戻ることのできない人生の分岐点をかすかな悔いとともに思い返す時、そこに本を読む少女がいたことが、何か不思議に満たされる心象を生んで いる。本の世界はそのような力を秘めている。
 しかし、コトが自分の読書体験となると、これはどこまでも個人的体験であるように思う。それは自分の本棚を他人に見られるというのが何となく恥ずかしい気分に反映している。学生の時、友人の下宿などにいくとまずその本棚を じろじろと眺めまわした。そこに並ぶ書籍の質量で、友人を値踏みするのである。だから、反対に友人が訪ねてくるとなると、その前に素早く本棚の蔵書位置を変えて、マックス・ウエーバーや丸山真男をセンター位置に移動させ、自信の持てる話し方8ヶ条」とか「百恵ちゃんのすべて」といった本はなかったことにする。
 若い頃の読書体験とは、同世代間のミエや「脅かしっこ」で、個人体験でありながらそれぞれの個人体験を競い合わせるようにして育てていく。
 「脅かしっこ」というのは、「あのさあ、丸山の日本の思想、読んだんだけど、結局彼の思想的伝統の論拠をどう見出していくかが現代政治学だと思ったな、オレは」とか、友人はいきなりぶちかますのである。となるとまだ読んでいないこちらとしては、内心かなりうろたえる。「まだ読んでない」というのはマケであるから、「でもそれは、彼の現代政治の思想と行動と読み比べることで見えてくるんじゃないか」とかでその場をしのぎ、帰ってから大慌てで「日本の思想」を貪り読むことになる。
 思えば、互いの言っていることはもっともらしいが、そのマウンティング的言動は幼なさにあふれていた。しかしあの頃はそうやって脅かしっこしながら、結構それぞれの読書体験を膨らませていったのである。これを読んだら、あいつにこう吹っかけてやろう、とか、この本は彼女は読んだろうか、とか同じ本を読む誰かがいることが、個人の読書体験を駆動していった。
 これはまあ、メールもネットもなかった70年代での私個人の読書体験だから、今の時代環境とは大きく違う。しかし、そうしたネットの目まぐるしいほどの情報交換がなかったからこそ、ある密度を持って個人の読書体験を共有でき たのかもしれない。今、メールで「読んだ?」と来ても、気軽に「読んでない」と返せるだろう。読書という体験とメールの瞬発とは情報処理にかける時間単位が違う。そういえば、あの頃は本を読んだことの思いの多くは手紙に託した。夜、電気スタンドの灯の下で、友人やガールフレンドの顔を思い浮かべながら、お気に入りのウオーターマンの万年筆で延々と本のことを記した。そうした時間を含めて読書体験だった。
 どちらが良いのかはわからない。たぶん、今の世代の人々はネットやメールで、もっと違う形のゆたかな読書体験を育てているにちがいない。
 今、「読書体験」と誰もが気軽に口にするが、実は本というものはかつては一部の特権階層の占有物だった。映画化もされているウンベルト・エーコの「薔薇の名前」に出てくる僧院での写本でお分かりのように、当時の本とは、限りなく豪華で大型で書籍というより聖堂に納められる貴重な宝だったのである。
 そこに革命を起こしたのがグーテンベルクの活版印刷の発明である。それまでの写本から、活版印刷は本の大量生産を可能にし、それだけでなく、知の解放はルネッサンス、宗教改革を引き起こし、中世から近世の扉を開くことになった。
 だが、私たちの読書体験が成立するには、もう少し歴史の歯車が噛み合わなくてはならない。
 私のパソコンは、その初期からアップルのマッキントッシュを愛用しているが、その理由のひとつが創業者のスティーブ・ジョブスの思想信条として、個人に出版できる権利をと、パソコンでDTP(デスクトップパブリッシング・卓上印刷)を可能にしたことだった。当時のアメリカのヒッピームーブメントとしてのカウンターカルチャアをパソコンという最新情報機器に持ち込んだところが、いかにもスティーブ・ジョブスらしい。
 そのDTPのソフトウエアにアルダス・ページメーカーがあった(その後、会社が変り、アドブ・ページメーカー)。当時のパッケージには、ある中世の人物の肖像がのせられていた。アルダス・マニティウスである。彼こそが商業印刷の父と言われる15世紀のイタリア、ベネチアの出版人だ。
 アルダス・ページメーカーは彼の名を冠している。印刷を発明したグーテンベルクには致命的な欠陥があった。それは印刷された本にはページ番号がなかったのである。それまでの写本を含め、そもそもページという概念がなかった。書籍というのは最初から読み解くことで天からの叡智が舞い降り、神につながる選ばれた者の関門だったのだ。
 アルダスは、本にページをつけた。そのことで誰もが知りたい内容にジャンプするようにアクセスが可能になった。すでにここにデジタルな世界の扉が刻印されたと言っていい。だから、当時の最新のDTPソフトウエアに、プログラマーたちは万感のリスペクトを込めて「アルダス・ページメーカー」の名を贈った。ページを創った人、アルダス・マニティウス。
 アルダスはそれだけではなく、グーテンベルクの持ち運びすら難しい大型本を、馬の鞍カバンに収まるサイズに小型化した。まさに革命だった。ここに現在の私たちの読書体験の世界がつながった。通勤電車で鞄から本を取り出し、なにげなくページをめくる私たちの日常は、遠くイタリアの出版人の時空を超えた思いで可能になったのである。
 今、読むという体験はデジタル媒体へ移行しつつあるとも言われている。確かにデジタルネットワークは情報の即時と拡張に飛躍的な革新をもたらした。ネット上には世界の全てがゆきかい、私もその恩恵は存分に受けている。ただ、ここから生起する情報社会の課題については、私には語るべき専門的知見はない。
 私にとっては本を読むことには、情報を得ることと、本の中の物語を生きる体験とのふたつの側面がある。
 15世紀のベネチアのひとりの出版人が、本の片隅に小さな数字をページとして置いたとき、それは本の世界の、情報と物語とをつなげた。
 私たちはページをめくりながら、情報と物語を自分の中に編み上げていくとき、異国の人物と出会い、行ったことのない街角に佇み、本の世界では、過去のものごとを現在に持ってくることも、未来への扉のありかを現在に見出すこともできる。それはなぜ可能なのだろう。
 日本フィランソロピー協会が最近出版した「共感革命」によれば、この社会を形作るのは共感する力だという。共感は信頼を育み、それが共同体を形づくり、この社会の基盤となったとしている。
 読書体験は共感を育てる。世界に飛び交う情報のネットワークは、共感する力を触媒にしてはじめて、豊かな物語を紡ぎ出す。一冊の本に秘められた共感力は、ある時は歴史の回廊を遡行し、またある時にはまだ見ぬ未来を引き寄せることだってできるのだ。
 はるかなどこかに「読む人」がきっといて、そのことを本の中に感じ取るとき、それは共感する自分をいつしか育てている。読書体験とは、時空を超えて、人をつなげる共感の世界だ。
 読みふける本からふと夏空に目を向けると、そこにあの本を読む少女がゆっくりと顔を上げ、花開くように微笑えむ。
機関誌『フィランソロピー』特別寄稿 2021年8月号 おわり