巻頭インタビュー

Date of Issue:2018.2.1
<プロフィール>
厚子・東光・フィッシュ 氏
 
あつこ・とうこう・ふぃっしゅ
大学卒業後、テレビプロデューサーなどとして働き、デュカキス マサチューセッツ州知事時代に、「日本との経済・文化交流促進を」と手紙で提案し、政策立案に携わる。1999年に夫のラリー・フィッシュ氏と「フィッシュ・ファミリー財団」を設立、移民、母子家庭などの低所得就労世帯を支援。2006 年からJWLIの活動を開始。2013年に、ホワイトハウスより Champions of Change 賞を受賞。Management Sciences for Health (MSH)、Asian Task Force Against Domestic Violence (ATASK) 、Health and Development Services (HANDS)、ボストン財団、シモンズ・カレッジ、ジャパン・ソサエティー・ニューヨーク、ボストン美術館、米日カウンシルなど、さまざまな分野の団体の理事を務める。
特別インタビュー/No.384
教養ある傍観者でなく 行動する日本の女性を応援
フィッシュ・ファミリー財団 創設者・理事
厚子・東光・フィッシュ
アメリカ・ボストン在住で、日本の女性の能力開発を応援する、フィッシュ・ファミリー財団の創設者であり理事の厚子・東光・フィッシュ氏に、日本女性を支援するようになった経緯や、女性たちへの想いなどを語っていただきました。
スポーツガールのファイティングスピリット
― アメリカにいらっしゃる前は、どんなことをなさっていたのですか?
厚子・東光・フィッシュ氏(以下敬称略) 1970年代、わたしは小さなPR会社で働いていました。そこで企画した「週刊現代」に掲載された、ノースウェスト航空のプロモーション記事が、運よく素晴 らしいカメラマンに出くわし、記事企画賞をとり、コーディネーターとして名前が載りました。それを見て、当時盛んになったゴルフやテニスの中継をする制作会社から声がかかり、スポーツプロモーションの世界に入りました。
― なぜスポーツなのですか?
フィッシュ 中学・高校、そして青山学院でテニスをしていて、インターハイや全日本選手権に出ていたので、雇ってくださったのだと思います。スポーツの醍醐味はシナリオのない舞台で、結果は試合が終わるまでわからないところにあります。試合に負けた時の悔しさや、一生懸命戦って勝った時の喜び、勝負の世界を、テニスを通して学びました。
― まあ、スポーツガールだったのですか!
フィッシュ その会社の社長さんが、オリンピックの放映権を取るチャンスをくださって、ヨーロッパで地位のある方に会うのだから、持ち物も着る物も恥ずかしくないものを持っていくようにと、予算まで付けてくださいました。
― そこまでして若い女性に任せるとは、当時としては非常に進んだ方ですね。ヨーロッパはどうでしたか?
フィッシュ 西欧文化では、女性が行けば、レディファーストの文化なので、必ずアポイントメントは取れました。そこで一度ドアが開いたら、思い切って懐に飛び込むことを学びました。その会議には、電通から辣腕のビジネスマンもいらしていました。片や、わたしは何のタイトルもありません。でも、男性に声はかかりませんが、わたしは仕事以外に食事にも招待されました。当時の日本とは違い、西欧では女性でも男性同様に、ビジネスのドアが開くことを知ったのです。
― チャンスを逃さず、しっかりビジネスにつなげたのですね。
フィッシュ その時は、オリンピックは取れませんでしたが、ゴルフのUSオ―プン、ブリティッシュオープンの放映権は取りました。外国では、女性であることはマイナスでなく有利で、しかも必死にアタックすれば心が通じ、ドアを開けてくれることが分かりました。1970年代は、アジア人の若い女性が交渉でヨーロッパに行くことは、とても稀な時代でしたから、放映権を取るために、日本からはるばるやってきて、一心不乱に交渉に臨む態度に同情(笑)、または感心し、チャンスを与えてくださったのでしょう。やはり認められれば、嬉しいですね。
― しとやかさだけでなく、外国で交渉するガッツがあったからです。
フィッシュ スポーツを通してファイティングスピリットを学びました。テニスは個人競技なので、技術だけでなく、体力、ストラテジー、勝ちたいと思う強い意志と行動力を得たことがビジネスに役立ったと思います。
― スポーツガールは、フィッシュさんの行動力と成果を出す源泉なのですね。
香港での発見 寄付とボランティア
― そのころ、結婚されるラリー・フィッシュさんに出会われたそうですが、当時は、ボストン銀行東京支店の新任支店長さんだったとか。
フィッシュ 知り合いのアメリカ人から紹介されて、ブラインドデートで知り合いました。会ったのは、ウィンブルドンの取材でロンドンに行く前日。大会のプログラムがほしいと言われて、生真面目に持ち帰ったら、彼は自分に気があると 思ったようです(笑) 。それが出会いですね。
― ご縁がつながったのですね。特に惹かれるものを感じたのですか?
フィッシュ 彼は大学を出て国務省に勤めて、発展途上国向けの経済支援を担当し、ブラジルに6、7年住んでいました。そのためか、アメリカの普通のビジネスマンとは何かが違うと好奇心を持ちました。
― それで一緒に香港へ?
フィッシュ 彼が極東支配人に昇進したので、わたしも行くことにしました。婚約していたのですが、いわゆる同棲で、彼の本社から「How is your living-mate?」と言われ、居心地が悪くて結婚することに。
― living-mate! 時代を感じますね。寄付やボランティアの始まりは結婚なさった時だったとか。
フィッシュ 最初のクリスマスの時に、彼が「僕は収入の10%を寄付する」と言いました。わたしは、アメリカのスポーツビジネスの香港支社で仕事をしていたので、それなりに収入があり、気にしなかったのですが、なぜ、そんなことをするのだろうと思いました。
― 旧約聖書にも、そうしなさいと書いてありますが、それにしても10%は大きいです。
フィッシュ ボランティアについては、ベトナム戦争の後で、香港にはたくさんのべトナム、カンボジアの難民が逃げて来ていました。彼が、その難民キャンプでボランティアをすればと言うので、それまでボランティアをしたことがなかったのですが、はじめて難民キャンプを訪れました。行ってみると、香港は亜熱帯ですから、尿や汗の臭いで凄まじい状況でした。あばら骨が見える子どもたちがたくさんいて、こんなひどい境遇の人たちがいるのかと驚きました。自分の知らなかった世界を垣間見たのです。これが後に社会貢献の世界に入る出発点となりました。
人々のために行動する人たち
― 結婚が社会貢献との出会いとは!当協会推奨の結婚話です(笑)。その後1983年にボストンに行かれたのですね。
フィッシュ しばらくは、香港での経験を忘れていましたが、ある時、MSH (Management Sciences for Health) という、全米一の発展途上国向けに公衆衛生を教育・普及するNGOから声がかかりました。その前に、マサチューセッツ州政府で、日本との経済や観光、文化交流に関する政策立案と実行担当者として働いていた経験が買われたとのことでした。
― 発展途上国向けの公衆衛生と日本、どんな関係なのですか?
フィッシュ 当時、日本のODA(政府開発援助) の予算が、アメリカの USAID(アメリカ合衆国国際開発庁) の予算よりも一時的に多い時代がありました。日本がお金を出して、発展途上国のインフラストラクチャーを整備するのですが、アメ リカは、そのお金を、公衆衛生のために使ってほしいといったのです。日本とアメリカには、Common Agenda ※ がありましたから、どうしたらいいかと、JICA や外務省の人が、MSHに研修に来ることになりました。
【Common Agenda】1993年7月の日米首脳会談で合意された地球環境保全、人口問題、エイズ対策など、地球的規模の問題に日米両国が協力して支援を行うための計画。
― そこで日本に詳しい人が必要だと。お子さんもいらして、忙しい時期でしたね。
フィッシュ 3人目の子どもが生まれたころでした。はじめは公衆衛生のことを知らないので、できないとお答えしました。MSHを創設した方からは、アフリカの子どもの死亡率の50%は下痢で、「手を洗うこと、トイレを整備すること、きれいな水を飲むこと」で死亡率が激減する。それを現地の人に教えるために日本のお金を使いたいので手伝ってほしいと言われました。それならできるかもしれないと思って、MSHに籍を置いたことが、わたしの人生を大きく変えたのです。
― スポーツガールのチャレンジですね。人生が変わったとは?
フィッシュ MSHに、小児科の心臓外科の先生がいらっしゃいました。病院を経営する裕福な家の先生なのに、NGOの安いお給料で活動している。「なぜですか」と聞くと、彼は、ボストンの病院で心臓の手術をするよりも、アフリカでは、公衆衛生の向上で1日に何百人もの子どもたちの命を救うことができる。自分は小児科医だから、たくさんの子どもの命を助けたくて、ここで仕事をしているとおっしゃいました。それを聞いたときに、目からウロコが落ちる思いがしました。そして、ラリーが10%の寄付をし、わたしに難民キャンプに行きなさいと言った意味が、はじめて分かりました
― 人生に、一本の筋が引かれたのですね。
フィッシュ 当時の銀行の仕事は、生き馬の目を抜くような猛烈な競争の世界でした。スポーツプロモーションも最終の目的は営利ですし、わたしは、戦後の復興で所得倍増計画の時代に、お金がすべての文化の中で育ちました。そうではない世界があり、人のため、子どもの命を助けたいためにアクションを起こす人たちがいることに、大きな驚きと衝撃を受けました。MSHで働いている人たちは、そんな高い理想に燃えた人たちばかりで、アメリカにはこういう人たちがいることを知り、素晴らしいと思いました。そして、人生ではじめて、真の生きる意味を知ったのです。
JWLI と CCJA の創設、人権問題に取り組む

2017年度「Champion of Change」Japan Award
授賞式にて
― 女性の問題にフォーカスするようになったのは、なぜですか?
フィッシュ 女性の問題は人権問題だと思うのですが、MSHと同じころに、Asian Task Force Against Domestic Violence という、ボストン地域で唯一の、アジア系移民の女性を対象にしたDV被害者のシェルターの理事を引き受けて、そのこ とを知りました。日本では、家庭内暴力という言葉も聞いたことがなかったので、もっとよく知ろうと10年ほど理事を務めました。
― そうした経験を経て、1999年にご夫婦で「フィッシュ・ファミリー財団」を設立。移民などの低所得者を支援していらしたのですが、Japanese Women's Leadership Initiative(以下JWLI)をはじめようとされたきっかけは?
フィッシュ 2000年に、MSHのCEOが日本で講演をする機会がありました。埼玉県の国立女性教育会館で、アジアの女性の自立と健康について話したあと、日本は平和で経済も発展し、住みやすい国なのに、女性の地位が低いのはなぜかという質問がたくさん出たのです。それで、日本を離れて20年も経っているのに何も変わっていない、なにかしなくてはと考え、日本の女性たちをエンパワーするリーダーシップのプログラムを作ろうと思いました。
― さらに2017年には、「Champion of Change」Japan Award(以下CCJA)を創立されました。
フィッシュ 社会課題で偉業をなし、社会に変革を起こす人をエンパワーする、オバマ大統領発案による「Champions of Change」賞で、わたしは、アジア太平洋圏の女性をエンパワーした2013年、第一回目の受賞者に選ばれました。JWLI の活動と東日本大震災への支援が、評価されたものです。受賞された皆さんは大変な苦労をされてきた方たちで、ホワイトハウスで表彰され認められたことに感極まって、泣いていらっしゃいました。私も、もらい泣きしてしまいました。その時の感動を、日本でも再現したいと思ったことが、アワードを作るきっかけです。今回の8人の受賞者の皆さんは、ホワイトハウスの受賞者に勝るとも劣らない素晴らしい方たちばかり。皆さんが、受賞は力になるとおっしゃってくださったので、本当に嬉しく思っています。
― 女性たちをエンパワーする活動は、ご自身にとってどんな意味がありますか?
フィッシュ インタビューされるたびに、なぜ支援するのかと聞かれると、自分でもよくわかりませんでした。でも、今回の選考委員会である委員が、「皆さん、ご自身や家族に問題を抱え、そのトラウマを乗り越えて、自分の居場所を見つけるための活動をなさり、それがひいては社会貢献に広がっている」と話されました。そこで、わたし自身も日本を離れて異文化に接し、成功したり失敗したりしましたが、このプログラムを通して「自分の居場所を探していた」のかと、はじめて思い至りました。日本を思う日本の女性の熱い思いと、自分の熱い思いが重なったのです。
― そのフィッシュさんは、いまの日本をどう思われますか?
フィッシュ 日本には、まだ残念ながら、自由・平等・平和に暮らす権利、「人権」のあることを、だれも主張しないし、主張することを白い目で見るような文化があると思います。日本は、戦争の焼け野原から74年間経済の復興に邁進しながら、また東日本大震災から復興しようとする間も、弱者を踏みつけ、置き去りにして進んできました。それが限界にきています。
国は国民のための政治ではなく、政党のための政治を行い、企業は株主が喜ぶ収益にのみ力を入れてきました。それでは一体誰が、平和で、健康に暮らせる世の中を作るのですか?女性だけでなく、子ども、お年寄り、メンタルあるいはフィジカルにハンディキャップのある方たちの権利を、このまま置き去りにすれば、日本の国の底辺の人々の暮らしは滅茶苦茶になってしまいます。今までは、女性たちが縁の下の力持ち的に支援してきましたが、もはや縁の下の力持ちではいけないのです。
― SDGs と言われますが、その目的は、だれも置き去りにされない社会をつくること。その意味を考えなくてはいけないと思います。
フィッシュ 日本の国は、人口も減り、子どもの数も少なくなっています。弱者も移民も、すべての人が自由・平等・平和に暮らせる国になることを目指し、日本の素晴らしい文化を保っていくために、お金中心で物事が上手くいっていたのは、ふた昔前の話。今やそれは時代遅れとなり、やってはいけないことだと思います。世界中が不安定な世の中、今こそ女性の底力を発揮するときです。そこには、日本の女性にできる分野が、たくさんあります。これから JWLI と CCJA を通して、今まで個人の点でやっていた人助け、社会貢献が、点をつなぎ線になり面になれば、底辺にいる人たちを救おうと活躍している女性たちのパワーになります。その活動がムーブメントとなり、世の中を大きく変えていくよう働きかけていきたいと思っています。
日本の女性は素晴らしいけれど、控え目すぎて「教養ある傍観者」にならないでほしいと思います。一人ひとりが強い心で自分の力を信じ、間違っていることは間違っていると声に出し、勇気を持って行動に移してください。日本の女性は能力があ るのに勿体ない、そう思って「おせっかい」(笑)でやっています。
― 女性をエンパワーし続けてくださる活動に、日本への深い愛を感じます。わたしも大いに触発されました。スポーツガールの行動力を見習います。ありがとうございました。
【インタビュアー】
公益社団法人日本フィランソロピー協会
理事長 高橋陽子
 
(2017年12月11日 国際文化会館にて)
Japanese Women's Leadership Initiative(JWLI)
2006年に設立。「日本社会に良い社会変革をもたらす活動を実践する女性リーダーの育成」を目的とする日本女性を対象としたフェローシッププ ログラムです。ボストンで行われる4週間のリーダーシップ研修を通じて、応募者の中から選ばれた「フェロー」たちは、リーダーとなる自信とマネージメントに関するスキルと知識を身につけ、社会変革をもたらす具体的なプランを構築します。
 
(内容)
・東京での事前オリエンテーションとワークショップ。
・4週間のボストンで、NPO、社会起業家やインキュベーターを視察訪問し、組織運営のノウハウやファンドレイジングの手法、リーダーシップなどを学ぶ。
・アントレプレナーシップランキングで過去20年以上にわたって全米1位を誇るバブソン大学にて、1週間の女性リーダーを養成する社会人向け研修に参加。
・バブソン大学教授によるコーチングのもと、自身が実現したいと考える社会変革に対するアクションプランを研修参加中に立案および発表。
・帰国後はメンターの伴走のもと、実行プランを日本社会において2年で実現していく。
 
(研修のメリット)
・行動力のあるリーダーになる ・リーダーとしての自信を高める。
・実現したい社会変革のアクションプランを具体化する。
・より良いパブリックスピーカーに育つ。
・ボストンの成功したソーシャルリーダーたちと繋がる。
詳しくは、http://jwli.org/ をご参照ください。
Japanese Women's Leadership Initiative(JWLI)
日本において超高齢社会、大災害、子どもの貧困、地域社会の疲弊など、さまざまな課題に直面した時に、勇気をもって自ら行動を起こし、地道に活動を続け、課題の解決や新たなシステムの構築に取り組んできた女性たちに光を当て、広くその活動を知らせるために、厚子・東光・フィッシュ氏の提案により創設されました。
2017年12月に第1回目の8名の受賞者が表彰されました。
(写真は、2017年度「Champion of Change」Japan Award 授賞式)
機関誌『フィランソロピー』No.384/2018年2月号 特別インタビュー おわり