巻頭インタビュー

Date of Issue:2018.6.1
<プロフィール>
村木厚子さん
 
むらき・あつこ
1955年高知県生まれ。高知大卒業後、1978年に労働省(現厚生労働省)入省。障がい者支援、女性政策などに携わり、雇用均等・児童家庭局長などを歴任する。2009年6月に郵便不正事件で、虚偽有印公文書作成・同行使容疑で逮捕される。2010年9月に無罪判決確定。2013年に厚生労働事務次官に就任し、2015年退官。2016年4月に「若草プロジェクト」が発足し、呼びかけ人代表として活動。現在、企業の取締役や監査役、団体・学校の理事、大学の客員教授などを務める。
巻頭インタビュー No.386
だれかのために その想いが自分自身を強くする
元・厚生労働事務次官
村木 厚子
2009年、当時厚生労働省局長だった村木厚子さんは、身に覚えのない郵便料金不正事件で逮捕・起訴された。ほぼ半年にわたる勾留の末、無罪判決が確定。検察特捜部による捜査資料改ざん・隠ぺいが発覚して、「捜査の問題点を検証したい」と起こした国家賠償請求に勝訴。その賠償金を「累犯障がい者※」のために寄付した。
村木さんは職場復帰したあと、厚生労働事務次官を経て退官。官僚から、企業・大学と幅広く活躍を続け、セクターをつなぎ、積極的な社会活動を展開している。
【累犯障がい者】知的障がいや精神障がいがあり、犯罪を繰り返し起こしてしまう人のこと。この寄付により、当協会は、第15回まちかどのフィランソロピスト賞 特別賞を贈呈しました。
拘置所164日間
― 国家賠償請求で勝訴されたときに、「こんなにがっかりしたことはない」とおっしゃいましたね。まず、逮捕からの経緯を教えてください。
村木 大阪拘置所での取り調べは、最初から筋書きありきでした。初日に、検事から「わたしの仕事は、あなたの供述を変えることです。あなたの場合は起訴されるでしょう」と言われました。
― はじめから大衝撃ですね。
村木 だれが真実を探してくれるのかと不安でした。「執行猶予がつけば、たいした罪じゃない」と言われた時には、大変怒りを感じました。
― 人の人生を何だと思っているのでしょう!
村木 公務員は信用が命で、わたしは、どれだけ信用してもらえるかで仕事をしてきました。「刑務所に行かないですむなら、罪を認める」などということは、あり得ません。全く価値観がずれています。検察側も世のためだと疑っていないと思います。でも一生懸命やればやるほど、正義を貫くことと勝負に勝つ(有罪を獲得する)ことがイコ―ルになりがちです。
幸い客観的な証拠が出てきて、無罪判決に。その後、証拠の改ざんまでわかりました。組織をあげて、ストーリーに沿った供述調書作りにかかわっていたのです。なぜ、わたしがターゲットになったのか。なぜ、そういうことができてしまうのか。真相解明したいと国家賠償請求をしました。
― 大きな決断でしたね。
村木 勇気が要りましたが、裁判を通じて何が起こっていたのかを明らかにすることは、社会的に大事だと思ったからです。ところが、1回目の公判直後に「認諾」に。
― ニンダクとは?
村木  「すべて認めて、言われたとおりにお金を払いますから、裁判は終わり」と言われたのです。
― 国は、逃げたと思ってしまいます。それで、勝訴したのに「がっかりした」と。信念を貫いた半年の拘置所生活でしたが、折れそうになりませんでしたか?
村木 最初は環境の激変。身体検査をされて灰色のトレーナーの上下を着て、番号を持って写真を撮られ、会えるのは弁護士だけ。まず自分に問いかけました。「わたしは変わったか」「わたしは失ったか」
― それ、すごいですね! いつごろですか?
村木 2日か3日目でした。起きていることは変えられないのだから、自分の置かれた状況をきちんと把握しなくてはいけないと、直感的に思ったのです。
― そんなに早い時期に。普通、嘆き悲しむ段階ですよ。
村木 経験かもしれません。子どもが小さいときに、切羽つまって仕事が続けられるかどうかという厳しい時期がありました。あれもこれもどうしようと考えていても始まらない。頭を整理し、できることを書きだし、やれることをやったら、事態は変わらないけれど落ち着けました。そのときも、これだと思ったのです。
― すごい、子どもを育てながら仕事をする中で、鍛えられていたのですね。それで問いかけは?
村木 「変わったか」についてはNO。間違いで大騒ぎになっているけれど、わたしは変わっていない。「失ったか」は、「犯人」として報道されているわけですから、失いつつあるものはあるかもしれない。一方で、「信じているから頑張れ」というメッセージが届いていました。「こんなにたくさん持っているものがある」と気付いただけでいいと思いました。今できることは、健康でいる、裁判の準備をまじめにやる。そのふたつしかないと思ったら、楽になりました。
― ふたりの娘さんたちのことを思うと、辛かったでしょうね。
村木 頭の整理はできたけれど、その段階では、頑張りきれる自信はありませんでした。でもふと、将来娘たちに何かあったときに、「あの時にお母さんは頑張れなかったから、自分も折れてしまうかもしれない」と思われては困る。「お母さんも頑張ったのだから自分も頑張ろう」と思えるよう、裁判の結果には関係なく、今ここで娘のために頑張らなくてはと心に誓いました。そう思ったとたん、もう私は大丈夫だと感じ、不安に過ごすことは、ありませんでした。
刑事司法と障がい者の重なるところに
― 国家賠償請求の賠償金を寄付なさろうと思ったのは、なぜですか?
村木 賠償金とはいえ財源は税金。それまで30数年、税金でお給料をもらう生活をしてきました。拘置所で三食付き、それも税金だと思うとやるせない思いで、出たら職場に戻って働きたいと強く思いました。ようやく戻って、真相究明の裁判を起したら、裁判費用を除いた3,333万円が手元に。自分では使えないと思ったのです。
― その想いが、累犯障がい者につながったのは?
村木 事件が「障がい者のための」郵便割引制度の不正で、障がい者に関係していたし、刑事裁判のプロセスに疑問を感じたこともありました。役所で仕事をしていて、国会答弁などに慣れているわたしにとっても、取り調べは大変怖いものでした。裁判でも、記憶だけを頼りに、被告人席で自分の言い分をきちんと主張するのは、本当に難しいことだと知りました。ましてハンディのある人であれば、どんなに難しいか…。このお金は、刑事司法と障がい者が重なるところ、「累犯障がい者」への寄付が、一番ふさわしいと思いました。
― 累犯障がい者については、一般的にほとんど知られていませんね。
村木 20年ほど前ですが、長崎県にある 社会福祉法人南高愛隣会 の理事長、田島良昭さん(当時)から、知的障がい者に一番よくしてくれるのは「ヤクザのお兄さん」であることはよくあることで、男の子は使い走りに、女の子は風俗で稼いで貢ぐことになると聞きました。わたしが拘置所にいたときには、女子受刑者もいて、作業として食事や洗濯物を運んでくれました。かわいくて幼げに見えたので、あの子たちは何をしたのかと聞くと、売春や薬だというのです。そう言われても、やさぐれた感じがしない。なぜ、ここまで来たのだろうと思ったときに、田島さんの言葉を思い出しました。
― 受刑者には、2~3割の知的障がい者がいるそうですね
村木 半年、彼女たちを観察してわかったのは、「刑務所は悪い人がくる場所ではなくて、困って追いつめられた人がくる場所」だということ。お正月前になると人が増えるそうです。大阪拘置所は冷房も暖房もなく、石の壁でひんやりします。そんなところでも入りたい人がいる。季節の節目に合わせた食事がでますから、お正月にはおせちも出るでしょう。
― そこなら、おせちが食べられるからと。確かに、刑務所や少年院に対して、悪い・怖いという固定観念があります。それで「累犯障がい者」を支援する南高愛隣会に寄付を。
村木 南高愛隣会が「共生社会を創る愛の基金」を設立し、運営の仕組みをつくってくださったので、以来、研究事業、助成事業、広報・啓発活動をしています。法務省や厚生労働省でも、累犯障がい者をなんとかしなくては、という思いがあったので、手伝ってくださっています。
― 2012年設立でした。
村木 1、2年で終わるお金だと思っていましたが、南高愛隣会の支援や多くの方々の寄付で、活動を続けています。寄付は、ひとつの行動が、後につながるところが面白いですね。
居場所のない少女のためのプロジェクト
― 職場復帰されて、2013年に厚生労働事務次官に就任。拘置所から事務次官というのも、振れ幅がすごい(笑)ですが、2年後に退官。2016年に、「若草プロジェクト※」の呼びかけ人となり、支援を始められましたが、その経緯はどのような?
【若草プロジェクト】貧困、虐待、ネグレクト、DV、いじめ、性的搾取、薬物依存、育児ノイロ―ゼなど、さまざまな問題に翻弄され、苦しむ少女・若い女性たちと、彼女たちを支援する人たち(支援者)をつなげ、支援を届ける。
村木 拘置所にいて休職中だったとき、仕事に関係することで一番心に堪えたのが、児童虐待のニュースでした。役所も、子どもの虐待については一生懸命やっているけれど、管轄や法律の制約のなかで、「取りこぼしている」という思いがありました。
― 非行系の少女たちには、家庭での身体的、性的虐待の経験が多いそうですね。
村木 家族内での辛い状況が言えず、家や学校に居場所がない女の子たちは、夜の街を徘徊するしかありません。でも夜の街には誘惑も多く、リスクも高くなる。SNSで探せば、夜のご飯を食べさせてくれる人がいるし、女の子だけで行くと、男性が食事をごちそうしてくれるところもあります。そこから後、どこへ行くのか。渋谷の街を歩けば、スカウトのお兄さんが数メ―トルおきに声をかけてくる。そんな状況のなかで、同じ問題意識をもつ弁護士で、代表理事になった大谷恭子先生に出会えたことで、若草プロジェクトを立ち上げました。
― 作家の瀬戸内寂聴さんも呼びかけ人ですね。どんな活動を?
村木 「つなぐ」「広める」「学ぶ」でやっています。「つなぐ」では、彼女たちの抱える問題は深く、複雑に絡みあっているので、支援者同士がつながり、ワンストップで相談できるようにする。そして困っている子を支援につなげていく。
「広める」は、好きで悪いことをやっている悪い子ではないと、世の中に伝える。本人たちには、助けを求めていいよと伝える。
さらに「学ぶ」でこの問題について、少女に接する機会のある人たちとともに勉強していこうと活動しています。
― ライン相談もしていますね?
村木 1年目で500件くらい受けて、そのなかに、会ってサポートする必要のある重たい案件が、8件ありました。秋にはシェルターをつくります。自分たちで直接支援もしますが、いろんな形で支援する団体があるので、支援者をつなぐサポートをする役割ができたらと思っています。
ことし(2018年)は、一般向けのシンポジウムを、10月13日に東京で開催する予定で、桐野夏生さんが来てくださいます。
― NPOを立ち上げた若い人たちとの連携も。
村木 橘ジュンさん※、仁藤夢乃さん※ に講演をしてもらいました。世代の近い人のサポ―トは言葉が通じるし、中には同じような経験を持つ人もいるので、大変意味があります。仁藤さんから、「日本の公的支援は、すべての面でJKビジネスに負けている。なぜなら、夜の街のスカウトは一人ひとりに声をかけて、ご飯を食べたか、きょう寝るところはあるかと聞いて、直ちに提供してくれる。仕事まで紹介してくれる」と聞いたことが、衝撃的でした。
橘さんからは、「女の子たちは、立派な大人に会うのは怖い。彼女たちの持ってる葛藤やためらいを理解する信頼される大人になってほしい」と言われ、心にズシンときました。大人の側に頼れる人がいないから、他の場所で漂流しているのです。
橘ジュン(たちばな・じゅん)さん/2006年、街頭の女の子の声を伝えるフリ―マガジンVOICES 創刊。2009年に、10代20代の生きづらさを抱える女の子を支える NPO法人BONDプロジェクト設立。街のパトロ―ルや自主的な保護活動も行なう。
 
仁藤夢乃(にとう・ゆめの)さん/中学時代から東京・渋谷で家出生活を繰り返したが、2009年、明治学院大学社会学部に進学。在学中から高校生に目を向けた活動を始め、卒業後の2011年に 一般社団法人女子高校生サポ―トセンタ―Colabo 設立。2015年第30期東京都青少年問題協議会委員。
― 取りこぼさないこと、大事ですね。何をしているかを言いがちですが、何ができていないかに心を寄せることは、支援の本質だと思います。
村木 いろんな場所で、2度3度と被害に遭う子がいます。まわりからは、その子に原因があると思われ、その子自身も自分に責任があると思っています。わたし自身もそう思いがちでしたが、わかったのは「悪い人は、弱い人を見つけるのが上手」だということです。弱ってると悪い人を引き寄せてしまう。
一方、早くに助けを求めて自分に力を取り戻すと、悪い人は寄って来なくなります。橘さんと渋谷の街を歩くと、彼女には家出した子がわかります。同じようにスカウトにもわかるのです。
― 「どうせ、自分は」と自暴自棄になっている?
村木 女子少年院の人から、性被害で非行に走った子は、自分が汚れたと思う古いタイプ。むしろ倫理観の強い子が多いと聞いて驚きました。
― 若草プロジェクトの今後は、どのように?
村木 ファーストリテイリングとも協働できるようになりますし、医薬品や医療で協力してくれるところも探しています。関連支援団体に対して、少しずつでもお手伝いできるといいなと思っています。
 
だれかのために、他者への想い
― では最後に「だれかのために」という想いは、村木さんにとってどのようなものでしょうか?
村木 だれかに支えてもらうことは大事だけれど、「だれかのために」と思うことは、もっと人を強くする。これってすごいなと思いました。
2010年に厚生労働省に大臣官房付として職場復帰し、その後、内閣府に出向しました。翌年3月に東日本大震災が起き、1か月後に当時の内閣府特命担当大臣蓮舫さんに随行して、郡山市の避難所に行きました。そこで一人ひとりを励ます蓮舫さんのうしろについていると、「あっ、村木さんだ。よかったね、頑張ってね!」と、皆さんから声をかけられたのです。あの時は、被災した方々を励ましに来たはずなのに「へんだな、頑張ってねと言われている」と思うと、きまり悪いやら恥ずかしいやら。
― そのことで、公益財団法人さわやか福祉財団会長の堀田力さんから言われたことがあると。
村木 「いいことをしましたね」と。「避難所にいた方たちは、頑張ってねとずっと言われ続けていた。そうやって励まされることは大切だけれど、『頑張って』と言われるだけでは元気がでない。村木さんに頑張ってと言えたことで、絶対に元気が出たはずですよ」と聞いたときに、拘置所での体験を思い出しました。
― 娘さんのためにと思えたことで、ご自身が大丈夫と感じたこと?
村木 そうですね。拘置所に入るまでは、自分は支える側の人間だと思っていました。でも拘置所に入ったあの瞬間に、支えてもらう状況になりました。人は一瞬にして支えられる立場になる。一方で娘を支えなければと思うことで強くなれた。
「支えるだけの人」も「支えられるだけの人」もいないことを実感しました。
― だれもが、だれかを支え、だれかに支えられている。まさに共生社会です。
村木 もうひとつ思ったのは、「応援してくれる人がいるのは、今まで、それだけ何かをしてあげてきたからでしょう」とよく聞かれました。ところが、あのときに助けてくれた人たちは、それまでも、いろいろしてくれた人たち。むしろ、助けてもらいっぱなしです(笑)。
考えてみると、わたしを助けてくださったときに、助けてよかったと思ってくださった部分があったのだろうと思います。
― ギブアンドテイクを超えてということですね。
村木 生きていく上で、人に助けを請うことは恥ずかしいことではありません。また、人を支えることは、それ自体がその人のパワ―になる、幸せにつながる部分があると思います。どんな仕事についていても、その人なりの「だれかのために」を見つけられたら、人生が幸せになるし楽しくなるのではと思います。
拘置所に差し入れてもらった「花さき山」という絵本があります。だれの役にも立たないし、何もできないことを辛く感じているときに、読みました。主人公の女の子が、家が貧しく、妹のためにと、新しい着物がほしいのを我慢したのですが、我慢したことで、花さき山に美しい花がひとつ咲くのです。ああ、我慢するのでもいい、何かをしなくても花が咲くのだ。元気でいる、心配をかけないでいる。できることをすればいいと思い、大きな励みになりました。
― 「支えるだけの人」も「支えられるだけの人」もいない。どんなことでもいい、だれかのために、できることをすることで幸せになれる。貴重なメッセ―ジです。だれもが幸せを感じる、共に幸せになれる社会を目指したいですね。きょうはありがとうございました。
【インタビュー】
公益社団法人日本フィランソロピー協会
理事長 高橋陽子
 
(2018年4月20日 当協会にて)
機関誌『フィランソロピー』No.386/2018年6月号 巻頭インタビュー おわり