巻頭インタビュー

Date of Issue:2019.4.1
<プロフィール>
加藤登紀子さん
 
かとう・ときこ
1943年中国・ハルビン生。1965年 東京大学在学中に歌手デビュー。1972年学生運動のリーダー・藤本敏夫と獄中結婚、その後3女の母となる。代表曲に「ひとり寝の子守唄」、「知床旅情」、「愛のくらし」、「百万本のバラ」など。80枚以上のアルバムと多くのヒット曲を世に送り出してきた。夫・藤本敏夫(2002年死去) の手掛けた千葉県「鴨川自然王国」を、子どもたちと共に運営し、農的くらしを推進している。
HP:http://www.tokiko.com
T&T研究所:http://tti.chiba.jp
巻頭インタビュー/No.391
生まれた日に母への想いをこめて
シンガーソングライター
加藤 登紀子 さん
東京大学在学中に歌手デビューし、今も年100回以上のコンサートをこなし、テレビ、新聞、雑誌で活躍する加藤登紀子さん。当協会は、赤ちゃんが生まれたときの感動や喜びを文字にして残し、未来に伝える試み「未来への手紙プロジェクト」で、協力させていただいている。生まれたときを大切に、誕生日は未来につなぐ日と考える登紀子さんに、その想いについて聞いた。
「君が生まれたあの日」から始まったプロジェクト
― 「未来への手紙プロジェクト」で、赤ちゃんに手紙を書こうという運動を始められたのは、どのようなきっかけからですか?
加藤登紀子さん(以下敬称略) 誕生日って、プレゼントを差しあげるのも大変だし、いただくとお返しに悩みます。一生懸命考えても、喜んでもらえるかどうかわかりませんから、プレゼントには、苦労しますよね。そこで考えたのが、ものでプレゼントをするのでなく、誕生日を、お母さんに感謝する日にしたらどうか。例えば、お母さんや誰かが「あなたが生まれた日は、こうだった」と話してくれたり、それを聞いてもらう日にするのはどうかということでした。
― ご自身の歌「君が生まれたあの日」がそうですね。感謝と祝福する気持ちを、お父さんが綴っています。
加藤 プロジェクトは、その歌がきっかけになりました。子どもが生まれたとき、お母さんは忙しいでしょ。おっぱいをあげて、寝ていなくちゃいけない。一方、身の置き所のないお父さんが、厳かな気持ちになっているあいだに、何かを書いてほしいと思ったんです。実際には、孫が生まれたときに、おばあちゃんが、あなたのお母さんはどうだった、お父さんはどうだったと書いてくださることが多いですね。
― 自分が生まれた日のことを伝える手紙。素敵なアイデアです。誕生日にそれを読んで、感謝の気持ちを新たにするのもいいですね。
ご自身が生まれたときのことは、どうですか?
加藤 母は話すのが好きだったので、その日のことはエピソードになっていて、何度も話してくれました。
わたしは、1943年12月27日に、中国のハルビンで生まれました。とても寒くて、窓が二重窓だったので、その間にシジミをぶら下げていました。父が、毎朝、そのシジミを食べたいというので、母は、取ろうとして敷居の上によじ登る。そのせいで 1か月も早く生まれそうになって、びっくりして病院に行き、「分娩台に上がる前に、あなたが飛び出してきそうになって、手で押さえた!」というんです(笑)。
― まあ、気丈なお母さんですね。1943年といえば、戦況も悪化した時期ですね。
加藤 食べ物が配給される時代で、いろんな方がお正月の特別配給を病室に届けてくれました。母は、「こんな時代に、病室が食べものであふれるなんて、あなたはすごく運のいい子だ」と思ったというのも、定説になっているエピソードです。
― 終戦もハルビン。大変な状況だったでしょう。
加藤 そのときは1歳8か月。守ってくれる家も国もなくなり、収容所に入って1年後に、日本に引き揚げました。母は、常に「あなたがいて、よかった」と言ってくれました。赤ん坊をおんぶしていると、誰も襲ってこないんです。だから、「トコちゃんを貸して!」と頼まれ、いろんな人の背に背負われたようです。「あなたは『お守りさん』だった」といきいきと語ってくれました。
― 辛い時代に、お守りさんだった。生まれたことを喜んでもらえて、なによりも嬉しい言葉です。
2018年12月27日の誕生日に
― 昨年(2018年)春に出版された自伝『運命の歌のジグソーパズル』には、引き揚げの話も詳しく書かれているのですね。
加藤 それについては、母が91歳のときに書いた『ハルビンの詩(うた)がきこえる』という本があったので、書くことができたんです。
― 91歳で本を! すごいです。
加藤 「100歳まで生きても、あまり威張れないけれど、誰も知らないことを見てきたことはすごいことだから、書いたほうがいいと思う」と言い出したと思ったら、広告の裏に、鉛筆で書き始めました。それをまとめたのが、『ハルビンの詩がきこえる』でした。
― お母さんにとってハルビンは、青春のすべてを過ごされた特別な場所。
加藤 そのハルビンで、昨年わたしは、家族とともに誕生日を過ごしたんです。
― そうでしたか。12月27日のお誕生日には、毎年、ご自身の「ほろ酔いコンサート」で、日本酒をふるまい、観客と一緒にお祝いしておられますよね。
ほろ酔いコンサート:1971年に日劇ミュージックホールで始まった。会場で酒がふるまわれ、加藤さん自身もほろ酔いで歌うコンサート。多くのファンから愛され続けている。
加藤 昨年は、その前にコンサートが終了したので、孫6人と娘ふたりと夫たちもいっしょに、零下20度のハルビンに行ってきました。
以前、母の本を中国語に翻訳したいという人がいて、その後どうなったかを知りたくて、できれば関係者に会いたいと思ったんです。びっくりしたことに、「もう翻訳本ありますよ」と! まだ発売していないけれど、出版局の中では本になっていて、それを読んで、みんなで学習しているという。
― 学習、ですか?
加藤 母は、1935年から11年間の、ロシアから満州国に移行する間のハルビンの生活を書いたのですが、そのころのことは、文化大革命などで全部壊されてしまったので、何もわかりません。今の中国では、当時のハルビンの生活、家や建物や文化をできるだけ復活させたいと思っていて、母の本が大変役に立つと言われました。
― 2017年に101歳で他界されましたね。生きていらしたら、どんなに喜ばれたでしょう。
加藤 わたしが、戦後最初の日本人としてハルビンのコンサート(1981年の音楽祭)に出演したことも知っていて、その人のお母さんが、こんな本を残してくれたのは嬉しいことだと、わたしの誕生日のお祝いまでしてくださったの。
実は、ハルビンに行く直前「ほろ酔い」コンサートで張り切りすぎて、足を痛めました。極寒のハルビンに行くのに大変だなあと思っていて、そのとき、ふと目に入ったのが、傘立ての中にあった母の杖。「加藤淑子」と名前も書いてあったんです。
― お母さんの願いが…。
加藤 そうなの! 杖を通して、母が「わたしをハルビンに連れて行きなさい」と言っていると思うと、涙が出てきそうになっちゃいました。母の写真も持っていったのですが、出版局の人が、その晩年の写真を使いたいとも。
こうしてハルビンで、母の杖と一緒に誕生日を迎えられ、母の書いたハルビンの本が出版されることもわかり、嬉しかったですね。
― お母さんとの絆の深まる誕生日。娘さんやお孫さんにとっても、珠玉の思い出になったでしょうね。
加藤 ひいおばあちゃんについて、何かを感じたことでしょう。わたしは、母に感謝することができて、最高の誕生日になりました。必ずしも、みんなが集まってお祝いをする必要はありませんけれどね。その日をどんな日にしようか、自分なりの誕生日を演出すればいいのだと思います。
人生4幕目にクライマックスを迎える
― ハルビンで75歳に。昨年末の「ほろ酔いコンサート」に伺いましたが、あのエネルギーはどこから来るのかと圧倒されました。同年代の人たちの盛り上がりも見事。若々しい登紀子さんに、自分たちを同化させたいという、すごい熱量でした!
加藤 ほろ酔いは、みんなで騒ごうと示し合わせたところがあって、特別です。でも、最後の二日間は足が痛かったんですよ(笑)。片足立ちしていれば大丈夫だったので、そうしたら、却って元気そうに見えたらしくて。
気持ちと免疫力はつながっています。わたしは、風邪を引いたときは奮起する。スゴスゴと寝込んだりすると、ひどくなっちゃう(笑)。
― 3月1日には、新しい本を出版されたとか。
加藤 朝日新聞に「加藤登紀子のひらり一言」というコラムを、毎週日曜日に出していて、それを再編集したもの。「自分からの人生」というタイトルです。
― 登紀子さんらしい、ポジティブなタイトルですね。
加藤 1章が「ひらく」で子ども時代。2章が「はしる」で青春時代。3章が「こえる」でバリバリの現役時代。そして4章が「めぐる」で人生4幕目に入った世代。「いのちのめぐり」がテーマです。
― 自己実現ばかりいう今の時代に「いのちをめぐる」、いいですね。
加藤 何歳になっても、誰かに認められたいというところがあります。でも、そんなことより、自分で納得できればいいやって思えるようになったときに、はじめて自分に戻っていけるし、自分を生きられる。自分に欲張りになるのも50歳くらいまで。そういったことは捨ててちょうだいというのが、わたしの考えなんです。窮屈なのは、いやですね(笑)。
― 窮屈な時代って、あったのですか(笑)?
加藤 どっちかというと、我慢のできないほうだったと思います。ぐっと耐えたといっても、1日くらいかな(笑)。振り返ってみると、通りすぎているというか、超えちゃっているというか。
― 逆境にあっても、常にポジティブに考えていらしたお母さんの影響でしょうか?
加藤 それはありますね。母は、いやなことを言わない人だったけれど、引き揚げて来た時に、佐世保で迎えた人が、きれいな着物を着て現れたときには腹がたったと何度も言っていました。
― それは、なぜでしょう?
加藤 5歳と7歳の子どもの手を引いて、わたしをおんぶして船から降りたとき、あまりにボロボロで汚かったから、「ご苦労さまでした」とお辞儀をしてくれたけれど、誰も駆け寄って助けてはくれなかった。あれほど空しいことはなかったと。
でも、わたしが改めて佐世保市の「浦頭(うらがしら)引揚記念資料館」を訪れると、当時、佐世保には1日に何万人という引き揚げ者が帰ってきて、婦人会の人たちが炊き出しをして頑張ってくださったことがわかりました。だから、母の気持ちはわかるけど、感謝しなきゃいけないなと思いました。
― 汚くて、誰も駆け寄らなかった。想像するだけでも苦しくなります。混とんとした思いだったでしょうね。
加藤 正直な気持ちだということは、理解できます。だから、母から受け継いだ教訓は、「わたしはどんなときも、駆け寄っていけないような格好はしない」。地面で同じ高さのところに座りこんで、助けられる人になりたいと思っています。
― これからの登紀子さんの「人生の4幕目」。どのように考えていらっしゃいますか?
加藤 75歳を過ぎると面白いことがなくなるという人もいますが、とんでもない。1幕目、2幕目、3幕目は、全部4幕目への伏線。1幕目で人物設定があり、2幕目で恋が始まったり子どもが生まれたりして話が展開する。3幕目は、そのままうまくいくかと思ったら転ぶ。そして4幕目。死ぬということも含めてのクライマックスです。起・承・転までの素材を、4幕目でどう楽しむか。そういって自分自身を鼓舞、叱咤激励しています(笑)。
― ハルビンでの誕生日は、まさに4幕目へ幕開けエールでした。
ペシャワールの会への募金からはじまった
― さまざまなチャリティコンサートをされていますが、「ほろ酔いコンサート」では、「ペシャワール会」などへの寄付もしていらっしゃいますね。
加藤 世界中のいろんなところで懸命に働いている日本人が、たくさんいます。ひとりの日本人が、知恵をもって村に入れば、その村が救えます。アフガニスタンで戦いがあったときに、アメリカが空から爆弾を落とすその下で、人に寄り添い助けている人がいました。それが「ペシャワール会」の中村哲さん。その活動を応援したことが、ほろ酔いコンサートでの募金の出発点でした。
― 「ペシャワール会」は1983年に設立された中村医師の活動を支援する国際NGOです。いま、アフガニスタンで、医療活動、灌漑水利事業や、農村復興事業を支援していますね。
加藤 数十年前は、NGOやNPOが、いまほどの数はありませんでした。人々を守るために「国境」があり、人々を守るために「国」があると思う人はまだ多いですが、古典的な意味での「国家」は、終わっています。
この20年あまり、世界中で災害がおきていますが、日本は大きな災害を何度もくぐってきました。素晴らしいと思ったのは、助け合える力がこんなに強い国だったのかということ。人々が、すぐに駆け寄っていったんです。
― 平和は、すぐそばの人を助けること、そこから始まるといった人がいます。
加藤 何ができるかは人によって違うけれど、「困った人がいたら、自分のできることで助ける」。その気持ちの集まりが、最終的な未来のモラルだと思います。
目の前に大変な状況の人がいたときに、一番いい方法で助ける。それをつなぎ合わせて、網の目のように編んでいく。それがひとつの布になり、世界がつながればいいなというのが、わたしのビジョンです。
― 一人ひとりの想いと行動の一目一目が大事ですね。
加藤 災害の多発時代となり、国境での小競り合いが絶えず、21世紀は難民移民問題の時代。アメリカとメキシコ間の壁の論争のあいだにも、難民があふれています。それを助けているのはNGO。国が混乱しているなかでは、人々がNGOと何かしらつながることで生き延びている国も、たくさんあるんじゃないかしら。
― 民間の支援活動が、国の手の届いていないところの人たちを助けていますね。
加藤 グラスルーツといわれる活動は、非営利事業です。社会に必要だと思う人が、事業としてやり、それを支えなくちゃいけないと思う人が、事業を支援する。そのバランスで非営利事業が成り立って、今の社会が崩壊しないでいる。そ ういう活動をする人たちを、心から尊敬します。
若い人たちのなかには、社会的、ボランティア的な生き方を選び、NGOやNPO団体で働きたいという人たちが出てきています。それらの団体が、事業体として存続できることが重要ですね。
― その資金調達として、個人寄付は重要な方法のひとつ。
加藤 ヨーロッパなどでは寄付の大切さがわかっています。日本では、国がなんとかしてくれると思ってきたけれど、本当に大変になってきた今、本腰を入れて考えていかないといけないと思います。
― 登紀子さんは、誕生日にハルビンで、感謝とつながりを感じる素晴らしい1日を過ごされました。いのちを授けられた大切な誕生日を、どのように過ごすか。いのちの尊さを考え感謝する日になればと思います。その感謝のしるしとしての「誕生日寄付」を拡げていきたいと思います。
きょうはありがとうございました。
【インタビュー】
公益社団法人日本フィランソロピー協会
理事長 高橋陽子
 
(2019年1月15日 トキコプランニングオフィスにて)
機関誌『フィランソロピー』No.391/2019年4月号 巻頭インタビュー おわり