巻頭インタビュー

Date of Issue:2019.12.1
<プロフィール>
曽我哲司さん
 
そが・てつし
愛媛県出身。1974年松山商科大経卒、来島どっく(現新来島どっく)入社。2012年取締役、2014年代表取締役専務執行役員、2016年代表取締社長兼社長執行役員
 
巻頭インタビュー/No.395
企業が支援する塀のない刑務所の挑戦
株式会社新来島どっく 代表取締役社長
曽我 哲司 さん
2016年12月、刑務所出所者等の再犯防止に向けた「再犯防止推進法」が公布・施行され、国を挙げての取り組みが始まった。
 
その半世紀以上前から、愛媛県今治市にある自社の主力工場(大西工場)内に、構外泊込作業場として松山刑務所大井造船作業場を開設。受刑者への職業訓練の場を提供し、社員による技術指導を続ける会社がある。株式会社新来島(しんくるしま)どっくだ。昨年(2018年)、その作業場から、受刑者が脱走したことを記憶する人も多いだろう。同社の代表取締役社長、曽我哲司さんは、今治と東京を半分ずつ行き来する。その東京本社(千代田区)を訪ね、その後と受刑者の就労支援について聞いた。
工場内に開放的な刑務所施設を開設
― 曽我社長に初めてお会いしたのは、昨年(2018年)3月に開催した「再犯防止シンポジウム2018」でした。そこで、大井造船作業場で訓練を受けた受刑者の再犯率は低くて、5.4パーセントと伺い、開放的施設の有用性に感心しました。そのあと受刑者が脱走したと聞いて、びっくりしました。
【再犯防止シンポジウム2018】2018年3月に法務省と株式会社小学館集英社プロダクションの共催で開催。「雇用から始まる社会貢献~就労から出所者の社会復帰を考える」をテーマとした。
曽我哲司さん(以下敬称略) シンポジウムの直後でしたね。凶悪犯ではないとはいえ予測がつかない状況で、早く捕まらないと、皆さんの日常生活が戻りません。申し訳ないと思っていました。脱走事件としては、17件20人目でしたが、あれほど長く逮捕できなかったのは初めてでしたから、辛かったですね。
― 塀がないのですから、どうしても脱走の可能性はあります。それでも、大井造船作業場を閉じることはなかったのですね。
曽我 逮捕後、法務省でさまざまに議論されました。当時の上川陽子法務大臣も二度来社されて、謝罪とともに、住民などへのヒアリングも実施されました。その結果は、住民の代表含め、この取り組みは、悪い取り組みではないので支持しますとのことで、再開の方針が決定されました。
それから設備改善し、刑務員を倍増して、2018年12月26日に再スタート。月曜から金曜までは、今までどおり工場内の宿泊施設「友愛寮」に泊まり込んで作業します。違うのは、土・日は松山刑務所に帰ること。現在、13人入所していますが、住民と社員の理解によって存続でき、良かったなと思っています。
― ここに至るまでには、初代社長で、作業場を開設した坪内寿夫(つぼうち・ひさお)さんから続く、長年の取り組みがあったのですが、経緯を教えていただけますか。
曽我 もともとは、今の今治市波止浜(はしはま)町にいました。そこが手狭になったので、同市大西町に工場を建設し、設備拡張したのが発端です。1961年に大西工場ができた時には、地域との交流もして、たくさんの地元の方が入社しました。それと同時くらいに、松山刑務所の大井造船作業場が開設されました。
― なぜ、会社のなかに刑務所施設を? 普通できない決断です。
曽我 1960年に、坪内さんは松山更生保護会の副会長になりました。その関係で、当時の松山刑務所長の後藤信雄さんと懇意になりました。坪内さんは刑務所視察によく足を運び、受刑者から「今の作業は単純で面白くない」「刑務所の外に出たときには役に立たない」といった不満を聞いたようです。
― 社長さんが、更生保護会に入るというのも珍しいですね。
曽我 坪内さんは、シベリアで、捕虜として3年半抑留生活を送っています。極寒の地で食べる物も満足になく、過酷な状況で働かされたという経験をしたんです。それで、松山刑務所の受刑者を見たときに、「まったく一緒やな、これじゃあ更生できない」「受刑者に、仕事の面白さを教えてあげたら人は変わる」と思ったようです。1974年、わたしはそのとき23歳でしたが、「一生懸命働いて仕事の面白さ、喜びがわかれば、人は悪いことをせんようになる」と言われたことを覚えています。
片や、後藤所長も、出所したら生活が一番だから「職業訓練が非常に大切になる」と考えていたことがひとつ。もうひとつが、当時、刑務所の入所者には若い人が多く、その人たちが「刑務所に馴染む前に、更生の対策を打たなくてはならん」。そういうことがスタートのようです。
― 「馴染む」ですか?
曽我 「無気力感」や「諦め感」のことで、それがあっては先に行けないと。こうした後藤さんと坪内さんの強い思いが合致して、その当時の政治家など、あらゆる人を動かしました。
― それで、民間企業の敷地内に作業場が。
曽我 ふたりの思いからすると、開放的な施設以外にありません。刑務所に入れたままで仕事を教えてもうまくいかない。一般社会に近い生活を送らせるために、大井造船作業場ができたと聞いています。
― 一方で、坪内さんは「再建王」と呼ばれました。倒産寸前の会社を引き受けた経験から、どん底にいる人間の姿が重なったのかなとも想像します。
「株式会社新来島どっく」の沿革
 
1902年:波止浜船渠(はしはませんきょ)株式会社創業
1949年:来島船渠株式会社設立
1961年:愛媛県越智郡大西町に大西工場建設着手
1966年:新社名を「株式会社来島どっく」に変更
1987年:「株式会社新来島どっく」創立
 
注:船渠とはドックの意。
曽我 再建のほうは、厳しかったですね。頼まれたことばかりでしたが、リストラしなくてはいけないし、ときには嫌われることもある。けれども、地域にそれがないと困るという頭は持っていました。もともとは映画館を始め、それを大きくして、1949年に今の波止浜どっくを買い、来島船渠を設立。それから来島どっく、新来島どっくになりましたが、その間には紆余曲折あり、不況の波もありました。振り返ってみると、よくつながったなと思います。
共同作業で生まれる信頼と仲間意識
― 大井造船作業場ができて60年あまり。その間、廃止するという声はなかったのですか? 経営者が変わり、脱走が起きれば、きっかけになりませんでしたか?
曽我 続けられた理由は、社員と住民のサポートがあったことです。廃止の声は、社員からも、地域からもありませんでした。
出所者からの感謝の声も聞いています。「皆さんと一緒に働けて、ありがとう」「指導してくれて、ありがとう」と、彼らの日記や退所の感想文に書かれていて、それを社員も知っています。顧客からのクレームもありません。そういうところから、続けられたということですね。
― 一番のご苦労は?
曽我 そんなにないんですよ。大西工場に宿泊施設「友愛寮」があって、受刑者は社員と同じ仕事場で、同じ勤務時間で働いて、みんなと共同作業をしています。それが60年続いている。ですから、見慣れた当たり前の風景になっているんです。造船所の一部として受け入れています。損得で考えたことは、ひとつもないですね。
― 区別できるものはあるのですか?
曽我 ヘルメットの色が違い、彼らはブルーで、白いつなぎを着ています。もうひとつは仕方のないことですが、刑務員が、遠くから仕事の邪魔にならないようについています。
― 近隣の方には、抵抗がなかったのでしょうか?
曽我 田舎の町や村の活性化、地域創生は、企業との共存共栄が不可欠であると思います。企業が存続してくれれば、少しの不安はあるけれども、しっかりした取り組みをやり、対策を打ちながらであれば、町としても協力していく考えであると理解しています。
また、「再犯防止シンポジウム」で、大井造船作業場の更生復帰率が90%以上で、どこにもない試みで素晴らしいと褒めていただきました。技術指導をした受刑者が累計で3,600人になり、改めて、続けてきて良かったなという思いがありますね。
― 仕事がないと、再犯率は3倍といいますから、社員の方の誇りにも。
曽我 そうですね。社員も、受刑者の足掛かりとして、非常に重要な取り組みであるということを理解しています。
造船は、小さなブロックを大きくして船にします。共同作業が多く、危険な作業を伴うので、声掛けが大事です。助け合い、信頼感と仲間意識を持ち、一体感を持ってやらないとできません。そうなると、自分だけが怠けてはいけない、一生懸命やらないといけないという意識も生まれます。
― 受刑者にも、そういった気持ちが育まれると。
曽我 うちの工員も技術者なので、技術があったらどこに行っても飯が食えるから、社会復帰して職に就けるよう、職業訓練をして資格を取っておくことが必要だとわかっています。ですから、手に職をつけさせてやろうと、必死でやっています。
― どんな技術が?
曽我 溶接、切断、フォークリフトの免許、クレーンの運転手、危険物の取扱い資格者、それから「玉掛け」というクレーンなどに物を掛けたり外したりする作業もあります。品質が悪ければ、わたしたちが困るわけですから、きちっと教えます。みんな、かなりの資格を取って出ていきますよ。
― まさに社員は頼れる先輩。訓練じゃなくて、仕事の実践でやることにも、大きな意味がありますね。
曽我 訓練して、そのあと実践的な作業場で指導して、習得します。
こうした生活で学ぶことには、大事なことがふたつあります。ひとつは、匠。現場での職人感覚です。こういう時には、こんなことをするんだなという感覚を学びます。もうひとつは、一般の社会性を身につけること。コミュニケーションをしっかりとって、指示が出たら指示通りに。行ってきましたという報告もしなければいけない。時には、失敗して叱られることもあります。それは社会に出ても同じですね、辛抱が必要です。
― 刑務所や少年院でも技術を学びますが、今、おっしゃったことは学べませんね。
曽我 そこでやるのは、訓練のもう一つ前の段階です。わたしたちの一番の目的は、彼らを信じて一般社会と近似した職場環境で働いてもらうことで、更生につなげたいということです。それによって、更生復帰率も高くなりました。
― 御社での雇用は?
曽我 本人も育てられたところでは嫌でしょうから、ありません。ほかの工場だったら考えてみますよと言ったことはありますが、違うところに就職されました。資格を持ち、今の状況下ですから、建設業、鉄鋼業、造船業などに入っています。
― 一緒に働くことで、社員にも影響がありますか?
曽我 教えることによって自分自身も成長しています。彼らもマニュアルを頭に入れて、やって見せる。簡単にはいきませんから、自分も成長します。受刑者に対して、「よくやったな」とか「ありがとう」と感謝もしますよ。
― 共同作業だと、自然とそういう関係になるのですね。受刑者は、「ありがとう」と言われたことがない人が多いでしょうから、生きる原動力になります。
曽我 自分が役立っていることがわかると、自信ができて、変わるきっかけも早いですね。
軸をぶらさず、理念を守っていく
― さきほど、この取り組みが続けられる理由は、社員と住民のサポートがあったということでしたが、初代の坪内社長の理念をぶれることなく守っておられることで、信頼と理解を得ているともいえますね。

大井造船作業場のある新来島どっく大西工場
曽我 企業としてお役に立てることとしては、職業訓練の実践的な作業場を提供し、社員が教育・指導することならできるので、そこで工員感覚を学んでいただく。共同作業の仲間意識のなかでやってきたので、わたしたちとしては、社会貢献をしているという意識ではないんです。
― だから、当たり前の風景になっているのですね。歴代社長も、この価値を続けようという思いがあったのですね。
曽我 やめる方法を考えたことはないですね。どうやって続けられるかということばかりでした。今回も、国もそうですが、この取り組みは悪い取り組みではないという軸はぶれなかったということでしょう。
― これまで、経営が厳しい時もおありでしたが、軸がぶれなかったのはなぜでしょう?
曽我 職業訓練と実践の場を提供することのみでスタートしました。ぶれなかったのは、そのこと一筋で単純だからです。この仕組み・取り組みが持続できるかどうかは、坪内さんの理念通りに取り組めているか、運営されているか。わずかでもメリット・デメリットを考えると、続かなくなるだろうと思っています。
― 民間の企業が、職業訓練の場として、そこまでの仕組みをつくることは、なかなかできないことです。
曽我 雇用については、素晴らしい会社がありますよ。「協力雇用主」として登録されている会社が、約1万8,500社ほど。全部が雇っているわけではないですが、約1,200人くらい雇っています。ただ、どちらかというと中・小、個人 オーナーが多く、大手は少ない。もう一段、これを広げたいところだと思います。
― 一番素晴らしいと感じるのは、社員との共同作業。単純な場の提供以上のものがあると思います。新入社員は、皆さん、この取り組みを知っているのですか?
曽我 この取り組みについては、人事担当が話をしています。
― 今回の事件で、社員が辞めたりすることは?
曽我 それはないですね。工員は一緒に働いていて、信頼の絆があります。ほかにこれから何十年も生きていく人がいっぱいいますから、ひとつの例があったからといって、それが全部だという捉え方はしていません。
― 地域で受け入れられ、共同作業で社員との信頼関係を築く。技術を習得するだけではない、たくさんのものを得ることができますね。
曽我 受刑者たちと一緒に働いていた元社員が、受刑者は家庭の崩壊、経済的困窮などのいろいろな事情で、一般の人に比べて孤立感、孤独感が強いと言っていました。その人は「愛情に飢えている」という言葉を使っていました。そこ で、絶対にしてはいけないのは「無視」と「無関心」だと。優しく声をかけ、コミュニケーションをしっかりとってあげさえすれば、彼らは立ち直れると言っていました。
― そういう方が技術の指導をしてくださったことが引き継がれ、企業文化になっているのですね。ただ、昨年逃げた受刑者も、模範囚だったそうですが。
曽我 ほとんど脱走の主原因は衝動的です。今までのケースで多いのは、両親に会いたいとか肉親に会いたいとか、そういうことでした。今回は、中に受刑者だけの自治会制度があり、それに任せすぎたことと、もう一段、彼らの心情把握が不備だったところと聞いています。上下関係のできやすい自治会制度をやめて、生活係、環境美化係などの、フラットな役割制度にしました。面接も増やして、ハード的にはセンサーなどをもう少し強固な物にしました。
やはり、孤独感・孤立感が人を追い詰めますね。イギリスに孤独担当大臣ができました(2018年)が、6,500万人の人口のうち900万人が孤独感を味わっているそうです。日本も同じですね。みんな孤独なんだなと思います。
― 孤立させないためには、居場所と役割づくりが大事だと言われます。大井造船作業場は、受刑者に、その場を提供することに徹し、軸をぶらさない。では最後に、再開した大井造船作業場のこれからは?
曽我 前からやってきたことを受け取り、それを守り、いかに継続するかということだけをしてきました。わたしも余計なものを付加しないようにして、できるだけ素直に素朴に、初期の理念を守る。そして願いは、職業訓練と実践の場を提供することで、受刑者が円滑に社会復帰する手助けができたらいいなということです。それを、社員も十分に理解しています。
― SDGsの「誰一人として取り残さない」で、最も取り残されそうな受刑者を仲間として受け入れ、人間への信頼に根差した取り組みを続けておられることに、理念経営の真髄を見せていただきました。
当協会も、触法者はじめ、人生に躓いた人たちの再出発のために、微力ながら役割を果たして参ります。きょうはありがとうございました。
【インタビュー】
公益社団法人日本フィランソロピー協会
理事長 高橋陽子
 
(2019年11月5日 新来島どっく東京本社にて)
機関誌『フィランソロピー』No.395/2019年12月号 巻頭インタビュー おわり