巻頭インタビュー

Date of Issue:2020.2.1
<プロフィール>
堂目卓生さん
 
どうめ・たくお
1959年岐阜県生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業、京都大学大学院経済学研究科博士課程修了、経済学博士。立命館大学経済学部助教授を経て、2001年より大阪大学教授。
著書に『古典経済学の模型分析』(有斐閣、1992年)History of Economic Theory: A Critical Introduction、E. Elgar, 1994、The Political Economy of Public Finance in Britain, 1767-1873、Routledge, 2004(2005年日経・経済図書文化賞受賞)、『アダム・スミス』(中公新書、2008年、同年サントリー学芸賞〈政治経済部門〉受賞)
2019年秋に紫綬褒章受章。
 
巻頭インタビュー/No.396
今、あらためてアダム・スミスの思想に学ぶ
大阪大学総長補佐、社会ソリューションイニシアティブ長、大学院経済学研究科教授
堂目 卓生 さん
「アダム・スミス―『道徳感情論』と『国富論』の世界 ―」(中公新書)の著者である、大阪大学大学院経済学研究科教授の堂目卓生氏に、スミスの人間観、社会観から、あらためてスミスの思想について聞いた。
共感が、社会秩序の基盤となる道徳を形成する
― 堂目先生が、同書を出版されたのは2008年です。10年以上前になりますね。
堂目卓生さん(以下敬称略) 当時の風潮は自由至上主義(リバタリアン)的で、規制緩和の波が世界的に押し寄せていました。1989年のベルリンの壁崩壊から1991年のソ連崩壊で、社会主義が大失敗だったことが明らかになりました。政府が、あまりに手厚い財政政策や金融政策をすることも、かえって経済を混乱させることがわかってくるなか、やはり、市場の機能を使っていかないといけない、痛みを伴ってでも改革をしなくてはいけないという流れがありました。
― そこで、アダム・スミスが注目されたのですね。
堂目 次のようなことが、度々いわれました。経済活動において、個人が自分の利益を自由に追求することは悪いことではない。経済学の元祖アダム・スミスが「見えざる手」を使ってそういっていると。
これは、ある部分では間違っていませんが、スミスが知ったら、さぞかし不本意だろうと思いました。
【見えざる手】利己心に基づく個人個人の利益追求行動を社会全体の利益へとつなげる「市場の価格調整メカニズム」
― 自由至上主義では、貧しいことも自己責任といわれがちですが、スミスから見ると、どうなのでしょう?
堂目 スミスは自己責任とはいっていません。彼の生きた18世紀は、宗教的な社会観による束縛から人間を解放していこうという啓蒙の時代でした。スミスは、正義と深慮に基づいて、自分で決定できる独立した個人が必要だと考えたのです。弱者に対して、貧乏になったのはあなた自身の責任だという現代の意味とは全く違います。
さらにスミスは、自分で決定するためには、自分のなかに道徳が必要であり、道徳は「共感」をベースにした人とのつながりのなかで育んでいくものだと『道徳感情論』でいっています。
― 『道徳感情論』では、人間をどのように観ているのですか?
堂目 スミスは人間を観察するなかで、まず「感情」に注目します。感情には、喜び、怒り、悲しみ、哀れみなどがありますが、人間には、他人の感情を自分の心に写し取り、同じ感情を起こそうとする心の働きがあり、これが「共感」(「同感」と訳されることもある)です。
― その共感から、道徳はどのように生まれるのですか?
堂目 人間の本性には、「自分の利益を考える」だけでなく、「他人への関心」が備わっています。「共感」は、この「他人への関心」から芽生え、他人の感情や行為と、自分の感情や行為とを比較して、一致するものを是認し、一致しないものを否認します。さらに、他人も同じように是認・否認していることに気づくと、他人に映る自分のことが気になり、他人から認められたいと願います。
こうしたやりとりの繰り返しのなかで、わたしたちの胸中に「公平な観察者」が形成されて、その是認・否認にしたがって、自分の感情や行為を判断するようになります。この「公平な観察者」は、自分を含めたすべての人々との利害関係を逃れた 立場から判断する存在です。
― 「公平な観察者」とは、ある意味で、自分のなかの裁判官ですね。それにより見張られていれば、道徳的になっていくと。
堂目 ところが、人間は、常に「公平な観察者」に従う「賢さ」だけでなく、自分の欲望に囚われたり、世間の評判などを気にしたりする「弱さ」も持ち合わせています。程度の差はあるけれど、「賢さ」と「弱さ」の両方を持ち合わせる、それがスミスの人間観です。
「弱さ」から生まれる虚栄心から、優雅で立派な暮らしをするために富を得ようとする人たちが競争します。経済発展の原動力は、人間のなかの「弱さ」にあるといえます。
共感は、利己と利他を一致させる
― 「他人への関心」から共感が生まれるとのことですが、「利己」と「利他」は、共感とどのような関係を持っているのですか?
堂目 利他は自分を犠牲にして相手を優先するので、そこには自己犠牲があります。反対に、利己は自分の利益を優先します。共感は利他と利己をつなぎます。例えば、胸が苦しくなった人に共感すると、自分の胸も苦しくなります。そういう能力が人間にはあるのです。他人の痛みが伝わってきて自分も苦しくなり、治したいと思う。しかし、原因は、自分ではなくて相手の肉体にあるので、相手を「大丈夫か」と摩るわけです。相手が「はー」と息ができると、同時に自分も楽になる。
― まさに利他的行動に思えますが。
堂目 一見そうですが、当人からすると、自分を犠牲にして相手の苦しみを除いているのではなく、自分の苦しみを取り除いているので、利己的であるともいえます。「完全な共感」は、利他と利己の区別をなくし、一致させることができます。
 『道徳感情論』は利他主義を広める本ですねといわれることがありますが、むしろ、利他と利己の一致を広める本といった方がいいかもしれません。
― アダム・スミスは、「共感」によって、利己主義の暴走を止めようとしたのですね。共感によって、どのような利他的行動が可能になるでしょうか?
堂目 対他的な行動には、二種類あります。ひとつは正義(justice)です。相手の生命、身体、名誉に手を付けない。相手が憤慨すること、相手にとって有害なことはやめようとする。なぜかというと、立場を置き換えれば、自分がそうされたら憤慨することがわかり、自分が憤慨の対象になるのはいやなので、やめようとする。
もうひとつが慈恵(benevolence または beneficence)です。自分が何かをすると、相手が喜んで感謝する。感謝の対象になることは心地良いので、相手が喜び、感謝することを進んでやろうとする。
正義は法によって社会が強制するものですが、慈恵は共感するなかで自発的に行なうものです。社会は、正義により秩序が打ち立てられて、慈恵により、さらに美しく住みやすいものになっていくと、スミスは考えます。
― 共感で、人と人は一体になるとのことですが、それは、どこまで広がるものですか?
堂目 共感には想像力が必要です。母親は赤ん坊の熱が出たときには、自分のことのように心配し、命に代えてでも治そうとします。しかし、こういう気持ちは、親兄弟・家族・友だちくらいまでで、見ず知らずの人に、利他と利己を一致させるまで共感できるかというと、それは無理です。スミスは、共感が有効に働くのは、せいぜい同胞国民までだといっています。
― 共感を重んじるスミスは、人間の幸福をどのように考えていたのでしょうか?
堂目 古代のストア派哲学の影響を受けていたので、人間の究極的なよい状態は「心の平静」だと考えました。心が凪のような状態です。富んでいる人であれ、貧しい人であれ、心が平静になった時が一番幸福で、みんながその状態になるには、どうしたらいいかと考えました。
例えば、浮浪者は自分を卑下し、明日の暮らしを心配して心が波立っています。当時は救貧法があり、教会で施しが受けられましたが、それは一時的なもので、心の平静は得られません。貧しい人が多数いて、社会は不安定な状態でした。
そこで、資本や土地を持つ人たちが、フェアな競争のもと、資本を蓄積し、経済を成長させれば、貧しい人たちに雇用が与えられ、自立して生きていける、そして心の平静を得ることができる。経済成長はこのためにあるのです。
国富論は、国家間のつながりと平和を目指した
― そこで『国富論』ですが、正式タイトルでは「Wealth of Nations」(『An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations』)。一国の話ではなく、複数の国家のことをいっていると、初めて知りました。
堂目 あくまで私の解釈です。そうではないと考える人もいます。『国富論』だけを読むと、豊かになるための一般原則として、まずは分業。そのために市場が必要で、市場はフェアで自由でなくてはいけない。そこに「見えざる手」が働く。もうひとつは資本蓄積で、節約のすすめです。このシンプルな分業と資本蓄積の原理に従えば、どの国も豊かになる。豊かになったら、政府は防衛と司法制度、それから若干のインフラを完備するだけでいいと書いてあります。
スミスが構想した社会は、図のように示すことができるでしょう。図は、資本や土地を持つ人たち(①三角形の中にいる人たち)が、フェアな競争をすることによって、労働者階級の人たち(②三角形の外の人たち)に、雇用がもたらされること を示します。
確かに『道徳感情論』を読まないと、『国富論』は、国を富ませるためのマニュアルのように読むことができます。しかし、『道徳感情論』を合わせて読むと、そうでないことがわかります。特に、スミスが自由貿易を支持する理由がわかります。
― 『道徳感情論』から自由貿易に、どうつながるのですか?
堂目 一国だけが生き残ればいいのなら、保護貿易でいいのかもしれません。当時のヨーロッパ諸国がそうしていました。自分の国の産業を守るために、相手からはなるべく買わないで、自分のところの物を輸出する。すると、貿易差額で黒字となり、決済手段である金が手に入る。戦争が始まれば、その金を使って外国から物を買ったり、傭兵を雇ったりすることができる。重商主義は重金主義とも呼ばれます。
ゼロサムゲームで金を取り合う保護貿易は、一国が生き残っていくための合理的な方法に見えるかもしれませんが、ヨーロッパ全体から見るとばかげています。また、その国にとっても本当は合理的ではなく、特に最低限の生活ができる国民の数を 最大にしようとするときには、まったく不合理です。スミスは、この理由から自由貿易を推奨したのです。
― 人類全体の幸福「心の平静」を目指すなら、自由貿易の方が有効だと。でも、人が共感できるのは、同胞国民までではなかったでしょうか?
堂目 その壁を超える方法のひとつが、まさしく自由貿易なのです。イギリス人がフランス人の作ったワインを飲み、イギリス人が作った服をフランス人が着ることで、「けっこういいものを作るじゃないか」などと、互いの国民が想像のなかでつながります。貿易取引の最前線に立つ商人たちは、きちんと商品が届き、お金が支払われれば、互いに信用が生まれて、偏見はなくなるでしょう。
― 当時、イギリスとフランスは、戦争を繰り返して財政難にあったといいます。貿易で、両国民が友好的になるというのですね。
堂目 まずモノが行き来する。商人が行き来する。やがて人間が行き来することで共感が生まれ、人がつながり、交流を深めれば、穏やかな国際秩序ができるだろう。スミスはこう考えました。
― 『国富論』は、国際秩序を求めていたのですか?
堂目 『道徳感情論』の最後に、ほんとうに求めたいのは、人類のすべてが従うことのできる自然な正義だと書いています。共感によって秩序ができ、それぞれの共同体に正義の法ができますが、正義の法は、国の伝統や文化に染まっています。姦淫した女性に石を投げて殺すことが正義だという国もある。では、ほんとうの正義、人間としてやってはいけないことは何かと考えました。これができないと、国と国はつながれない。スミスは、自然的正義の上に国際法が打ち立てられるべきだと考えました。
― 国際法の基礎をつくることが、スミスの究極目的だったと?
堂目 私はそう思います。スミスは『道徳感情論』の初版(1759年)において、国際法の基礎になる自然的正義を明らかにする著作を書くと宣言しましたが、亡くなるまでの31年間、この計画は実現できませんでした。しかし、この計画の一部が1776年に『国富論』となって出版されました。こうした経緯を踏まえて『国富論』を読むと、一国だけが豊かになって、軍事力を持って他を圧倒するためのマニュアルではないことがわかります。
自然的正義に至る人間の交際を、どうやって広めていくのか。『国富論』には、そのために経済、国際経済はどうあるべきかが書いてある。『道徳感情論』から読むと、こう解釈できます。
アダム・スミスの残した課題から
― 堂目先生は、アダム・スミスを出発点に、スミスを再評価する経済学者の研究を通して、現在、持続可能な共生社会を構想する活動に取り組んでいらっしゃいます。それについてお聞かせください。
堂目 18世紀という時代の制約のなかで、スミスが残した課題が、ふたつありました。ひとつは、「家柄や経済状態によって競争に参加できない人びとをどうするか」ということ、もうひとつは、「宗教や文化が違う人びとまでどうやって共感を広げるか」ということです。これらの課題を引き継いだ経済学者に、ノーベル経済学賞受賞者のアマルティア・センがいます。
センは、不利な状態にある個人(女性、貧困者、障がい者など)の「ケイパビリティ(選択の幅)」を広げることを優先する社会の重要性を説いています。これは、「成長」から「分配」へ、「自由」から「平等」へとウェートを移す考え方です。
― 弱者への配慮でしょうか?
堂目 そうなのですが、スミスやセンをはじめとする経済学者の多くは、生産の視点から、財やサービスを提供することのできる優秀な人たちを、社会の中心に置いてきました。そして、生産活動に参加できない弱者、例えば子どもや高齢者、身体・知的障がい者たちに、作ったものをどれだけ分け与えていくかという分配の寛容さについて、異なる学説を提案してきました。それが、経済学の歴史だといえます。
ところが、わたしはカナダ人の実践家ジャン・バニエ(Jean Vanier, 1928-2019)に出会い、大きな衝撃を受けました。
― 経済学者でなく、実践家から!
堂目 バニエはアリストテレスの哲学研究家であり宗教家で、宗教分野のノーベル賞といわれる「テンプルトン賞」を2015年に受賞しましたが、2019年に亡くなりました。「ラルシュ(L'Arche =方舟)」という、健常者が知的障がい者と一緒に生活することで、健常者の持っている「心の壁」を取り払う場をつくりました。
― 「心の壁」とはどのような?
堂目 過去に受けた心の傷や恐れを封じ込めるための、誰もが心の中に持っている壁です。人間は「心の壁」を作って自分を守るとともに、それを思い出させる他人を排除しようとする。バニエは、差別や暴力の根源は、その心の壁にあると考えました。
「ラルシュ」では、知的障がい者を中心に置いて、健常者(正確には「健常者と思っている人びと」)が、その人たちと共感し合うことによって自分の中にある心の壁を発見し、受け入れ、乗り越えることによって、障がい者も健常者もなくなる状態を経験します。本当は弱者も強者もないことを知り、上から目線でしてあげるのではない接し方を学び、自分を解放していくのです。
― 先生の「大阪大学社会ソリューションイニシアティブ」(SSI)も、そうした共生社会を目差していると?
堂目 私が長をつとめるSSIは、今から30年後、2050年を見据え、持続可能な共生社会を実現するために、さまざまな社会課題の解決策を考えるシンクタンクです。
長年、経世済民の研究をしてきて、アダム・スミスの「共感」概念は、わたしに重要なインスピレーションを与えてくれました。しかし、スミスの思想だけでは、これからの問題に対応することはできません。課題も変わり、見方を変えなくてはならない部分もあります。
近代は、科学に依拠して物事を理解し、物質的な世界観をつくってきました。そして、物質的に豊かになることが幸せにつながると考えました。心が大事だといいながら、モノ中心の生活をし、人が人をモノのように支配する。それが近代の特徴だ と思います。もちろん、よくなった面もありますが、失ったこと、犠牲にしてきたことがあります。そのひとつが地球環境の持続性です。
ここからどうやって巻き戻していくか。近代的な世界観を見直し、そこから解放されていく見方を探さなくてはなりません。SSIは、こうした観点から、「命を大切にし、一人ひとりが輝く社会」を目差して活動しています。
― アダム・スミスの「共感」からはじまり、共感の範囲を拡げる思索の過程を教えていただきました。そのなかで、バニエの逆転の発想に出会い、これらの知的経験をもとに、持続可能な共生社会の構築に本気で挑もうとされていると、理解いたしました。
当協会も「誰も取り残さない」社会とは何を指すのか、具体的に示しながら、共生社会づくりのために尽力したいと思います。きょうは、ありがとうございました。
【インタビュー】
公益社団法人日本フィランソロピー協会
理事長 高橋陽子
 
(2019年12月11日 当協会にて)
機関誌『フィランソロピー』No.396/2020年2月号 巻頭インタビュー おわり