<贈呈理由>
猪鼻福松さんは、1915年に群馬県館林市で生まれるが、生まれながらに病弱で、小学校入学後も強度の脳膜炎などに苦しみ続け、学校も休みがちな少年期を送る。4歳の時、父が亡くなり、母まつさんは、夫亡き後、農業に従事しながら苦労して6人の子どもを育てた。我が子の病気回復を願って、毎夜、近くの大林稲荷神社にお百度参りに通っていたが、その母の姿を見つけた時、胸熱く涙したことを、猪鼻氏は深く心に刻んでいた。
やっとの思いで小学校を卒業したが、虚弱体質のため旧制中学に進学することも叶わず、家業の農業を手伝うこととした。その結果、農作業を続けるうちに体力がついてきたが、本格的な農業に従事するには限界があると考えた猪鼻さんは、商売を覚えようと、隣村の雑貨商に無給で働かせてもらいたいと依頼。ここでの寝食を忘れた働きと、商才に長けた仕事ぶりで、奉公先に多大な利益をもたらした。その後、日中戦争が始まり、縁あって、警視庁巡査として、東京南千住警察署に配属。「笑顔のおまわりさん」と親しまれ、町内の人々から信頼される巡査として、長い警察官生活の第一歩を歩み始めた。
1940年(昭和15年)、衛生兵として入隊し、中国戦線を転戦。中国出港前日、母の死の知らせを受けた。輸送船で南方へ移動中、その船は撃沈されたが、母なき人生への執着は失せ、同僚を生かすために働いたことで逆に命が救われたという奇跡的な運命をたどる。ラバウル、マニラで治療を受け、赤十字の電飾を施した病院船で、無事帰国することができた。
その後、腰椎骨折の傷病兵ながら警視庁に復職し、職務に誇りと使命を賭けて文字通り粉骨砕身従事し、「特別優良警察官」「警察功労賞」など数々の賞を受賞、1972年(昭和47年)通算34年間、南千住警察署の一警察官としての勤務を終え、定年退職を迎えた。病弱で義務教育も満足に受けられなかったにもかかわらず、限られた可能性を精一杯生かし、真摯に実直に、そして謙虚に生きることで「災い転じて福となす」人生を送り、今日を迎えている。
あきらめていた結婚も叶い、よき伴侶と子どもにも恵まれたが、いつまで生きられるかわからないという思いはいつもつきまとい、万が一の時に備え、こつこつ貯めた貯金を元手に株を始めていた。その才覚も大で、大きな財をなすことになる。しかしながら、長寿・幸運すべてにおいて母の深い愛と真摯な祈りが自分を救い、お百度参りをした故郷の稲荷神社の加護のおかげだという思いを持ち続け、自らはつましい暮らしぶりで、以前より心に誓っていたとおり、80歳の時(1995年)、稲荷神社の新築工事の建設費総額を奉納した。また、故郷の子どもの遊び場、恩人でもある赤十字へも寄付し、その総額は1億円にのぼる。
今日、職業人として個人としての責任あり方が問われているが、限られた可能性を最大限生かしながらも、実直に生きることを貫き通した猪鼻さんの、母と故郷への感謝の結実としての寄付は、まさに『まちかどのフィランソロピスト』そのものの在りようとして、賞を贈呈するにふさわしいものである。