<贈呈理由>
伊藤州一さんは1938年、静岡県天竜市に生まれる。兄二人が中国に出征、長男は結核で帰国するが亡くなり、戦中・戦後の4年間に、父親、兄弟を5人失う。戦後、母親が農業をしながら子どもたちを育ててくれた。そんな少年期の夢は「二十四の瞳」の大石久子先生のような僻地の小学校の先生になることだった。
大学卒業後、衆議院議員塩谷一夫氏の秘書として働いた。塩谷議員は中国との友好運動に熱心で、伊藤さんも1975年には日中友好国会議員秘書訪中団団長として初訪中するなど、国交回復へ向け奔走した。秘書を辞めた後も、「60歳の手習い」と北京郵電大学、大連鉄道学院に留学するなど中国との付き合いは続いた。
伊藤さんには「中国に小学校を建てて、子どもたちと遊びたい」という夢があった。それを聞いた友人から紹介されたのが長春市双陽区太平鎮にある小河小学校。校舎が老朽化し、倒壊寸前にもかかわらず改築できないという。伊藤さんは「東北三省は戦争の際、最も被害を受け、しかも多くの日本人残留孤児がお世話になった地域。恩返しがしたい」と300万円の寄付を決めた。伊藤さんにとって、中国の原点は東北部の開拓団。小学校の時の用務員のおばさんから聞いた「引き揚げ時、死んだ背中の子どもを道端に捨ててきた」という話が強烈に心に焼きついている。また、NHKラジオの「尋ね人の時間」を聞くと、ほとんどが東北部開拓団の人が探す当時の近所の人の消息。共に開拓した者同士に日本人も中国人もない。東北三省にこだわる理由はそこにある。
新校舎の名前は「至誠小学校」。「至誠」は、2000年にオートバイ事故で、28歳で亡くなった次男の名前。2005年にはハルピン市の小学校にも寄付。活動を知った仲間とともに現在も寄付を続けている。
その後は、母校・天竜市立横山小学校と至誠小学校の児童との交流を呼びかけ、絵画や学校生活を紹介した作文などの交流を開始。至誠小学校の子どもたちは、伊藤さんのことを「ラオラオーおじいちゃん」と言って慕ってくれる。伊藤さんは子どもの時の夢が叶い、大石先生になった。実の孫がいない伊藤さんに、たくさん孫ができた。「至誠さんの子どもたち」でもある。
戦争で残酷な傷を受けた人をたくさん見てきた。しかし人間同士としての共感と生きざまを開拓団の人に見た。それを子どもたちの素直な心にまっすぐに伝えたい。率直に行動する伊藤さんの寄付は、国を超えた人間としての誠意と愛情を体現するものとして、特別賞にふさわしいものである。