2010年5-6月合併号巻頭インタビュー
 
◆巻頭インタビューNo.330/2010年5-6月号
サクラが教えてくれる「自然と共生」の本質
染郷 正孝(そめごう・まさたか)氏/農学博士・元東京農業大学教授


染郷正孝氏 <プロフィール>
1930年、宮崎市に生まれる。1947年、宮崎県立農学校卒、農林省林業試験場に入る。1973年森林総合研究所主任研究官。1984年筑波大学農学博士取得 日本林学会賞受賞。1985年多摩森林科学園樹木研究室長。1992年東京農業大学短期大学部教授。現在、同学環境科学部客員研究員。著書に『宮崎の並木』(宮崎日日新聞社)、『ハンノキ植物の細胞遺伝・樹木進化の一断面』(林木育種協会)、『桜の来た道―ネパールの桜と日本の桜』(信山社)

太古の昔から日本の春を彩るサクラ。実はその生き方は私たちの持つ「はかない美しさ」というイメージとは違う一面を持っているという。25年の間、サクラの研究を続けている染郷正孝先生に、日本のサクラの歴史を紐解いていただくとともに、そこに隠されたサクラの真の姿をお話いただいた。そこから、私たちとサクラや自然との、新しい付き合い方について考えてみたい。

広葉樹の大切さを問い続けて

―春爛漫で、ここ東京農大もまさにサクラが満開です。先生も、毎年この時期を楽しみにされているのではないですか?

染郷/また春が来たという感じです。実は、僕はサクラが嫌いなんですよ(笑)。嫌いと言うと語弊がありますが、あまり惚れ込んでしまうと客観的でなくなりますから。「君はサクラを楽しまずに顕微鏡ばかり覗いているね」と昔から言われています。

―顕微鏡から見たサクラ、かなり無粋ですね( 笑)。これまでどのような研究をされてきたのでしょうか。

染郷/もともとはマツ、スギをはじめユーカリ、アカシアそしてハンノキ類などの樹木について、その品種分化や遺伝、育種を研究してきました。サクラはその最後の対象樹木ということになります。

―ご出身は宮崎で、戦後農林省の林業試験場に入られた。

染郷/はい。昭和22年に入所しました。入所して以降、日本は高度成長期に入り、林業も儲けないといけないと言われた時代です。だからスギやヒノキなどの針葉樹林を拡大造林するために、広葉樹林は切ってしまう。私自身は、広葉樹林は土壌を豊かにする大事なものだと思っていたのですが。本当は広葉樹林の中でスギを活かすことが、一番良いのです。それなのに、全部スギにしろと言うんですよね。

―自然に反する、何か無理なやり方ですね。

染郷/上の方はとても単純な発想で、例えば、農林省の方がオーストラリアでアカシアやユーカリの大木を見てくると、「これを植えて増やせば材木の生産が上がるはずだ。宮崎は南だからやってみろ」となるんです。現場の私たちは、「そんなことは無理。古来から親しんできたスギのほうが効率よく使いやすいに決まっている」と思っていたのですが。

―素人ながらも、その発想は少し無理があるように思います(笑)。

染郷/スギは何億年という中で、セレクションを受けた裸子植物で、ある意味で完成された植物と言えます。しかし、広葉樹のような新しく生まれてきた被子植物は、まだまだいろんなことをしようとする。だから個体間に、ばらつきが出てきます。スギの感覚で植えてもダメです。きちんと成長するのは3分の1くらいでしょうね。それなのに…と思いながらやりましたが、やっぱり予測どおりでした。しかし、ここでの研究結果は良い勉強になりました。

―東京に来られたきっかけは?

染郷/あるとき新聞社の記者から、「コラムに載せる何かおもしろい林業の研究話題はないでしょうか」と聞かれました。しかし、ユーカリもうまくいっていませんし、お話するネタはなかったのです。それで、当時、宮崎に街路樹を一生懸命広げている会社があったので、並木を通して、森林・林業に目を向けてもらうのはどうだろうと提案しました。それは良いということになりましたが、書き手がいなくて結局、私が書くことになったのです。あまり知識はなかったのですが、参考書から情報を集めて現場の写真を撮って載せたところ、これが好評を得ました。樹木に対する思いが伝わってくれたのでしょうか。

―強い思いは人に伝わるものですからね。

染郷/その新聞記事が東京にも伝わり、彼は筆もたつ、樹木のことも良く知っているという評価もあって東京に呼ばれました。そこでも研究テーマはスギに関するものばかりでしたが、私は広葉樹のハンノキの種分化の研究をサブテーマにしていました。

―ハンノキってどんな樹木ですか?

染郷/伊豆の大島などで噴火の後に最初に登場するがハンノキという樹木です。ハンノキは先駆的に現れて土地を肥やし、次の植物に場所を譲るのです。軒先を貸して母屋を取られるという感じですね。一見、地味ですが、豊かな森林の足がかりとなる役目をもった樹木と云えます。このハンノキという樹木は、私の生き方に似ていて、今に見ていろという気持ちでハンノキの種分化の研究に没頭しました。ここで得た知見は、後のサクラの研究に大いに役立ちました。

―広葉樹は水を育むと言われていますよね。

染郷/今でこそ、そう言われて大切にされていますが、当時はそうではありませんでした。しかし自分の信念で続けているうちに、世の中も広葉樹の大切さに気づき、上司からも認められるようになった。筑波大学の先生からは、その論文を持ってきなさいと言われたのです。それが学位論文となり日本林学会賞もいただきました。

昭和天皇からの「天の声」

―まさに信念と努力で続けてこられた結果ですね。そしてその後、多摩森林科学園の樹木研究室長に赴任されたのですね。

昭和天皇と小林義雄先生染郷/はい。昭和60年4月16日、その日、科学園はものものしい警戒態勢でした。昭和天皇が「お花見」をされるために来園されたのです。実はこの日が陛下の生涯最後のお花見となったのですが、私はサクラのことはまだ何も解らなかったため、加藤亮介園長と前任の小林義雄室長が陛下への説明役を務めました。私はもっぱら写真撮影担当で…(笑)。

―今ならたくさんお話ができたでしょうね。陛下とは会話をされたのですか。

染郷/陛下は高台から咲き誇る多種のサクラをご覧になって、「ここでは、雑種のサクラができるでしょうね」とのご示唆をいただきました。その言葉はまさに私にとって天の声だったのです。

―素人の私にはそのお言葉の深い意味はわからないのですが。

染郷/日本のサクラの品種の成り立ちを歴史的にみると、奈良時代から平安、鎌倉、室町時代の中央集権制度の中で、都に各地から献上品として色々なサクラが集められたことに始まります。これらが自然交雑を繰り返し、多様な品種が生まれたとされています。生物学者でもある陛下は、その事実と250品種が収集された科学園のサクラとを重ね合わされたのでしょう。
 陛下のお言葉は、私の脳裏に深く刻まれました。ここから私のサクラの品種分化の研究が始まりました。

―天皇陛下と中央集権制度、そしてサクラの関係、なかなか興味深いものがあります。どのような研究をされたのですか?

染郷/サクラという植物は、自分の花粉を拒絶します。だから雑種ができるのです。科学園で母樹を決めて自然交雑したタネを採取し、苗木を育てました。
 そして10年生となった苗木に開花がみられました。その花には親木とは異なる一重、八重、白い花、赤い花など多彩な異変が生じていました。10年の歳月を経て、ようやく陛下のお言葉を実証することができたのです。現在は、昭和天皇に最もふさわしい花をつける個体を「昭和天皇ゆかりのサクラ」として、芝浦工大・大宮キャンパスで保存しています。

ネパールから来た日本のサクラ

―日本人はサクラを心から愛する国民性がありますが、日本の風土にも関係があるのでしょうか。

染郷/日本は約6,000万年前、大陸から分かれ、その間に日本海ができ、沖縄から北海道まで細長い日本列島が形成されたのです。冬は日本海の水蒸気が雪となり、太平洋側は台風による雨などによって、水の豊かな「瑞穂の国」となりました。また、はっきりした四季の変化や微妙な環境が、多様なサクラの野生種や品種を育む風土となったのです。

  ―この日本列島の形が豊かなサクラを育む礎になっているのですね。サクラはもともと日本の樹木なのでしょうか。

染郷/日本のサクラの祖先は、ネパールあたりで長い時間をかけて伝わってきた「サクラの来た道」があるのです。そして日本列島の環境の中で、「美しい日本のサクラ」を創造しました。これは日本民族の誕生とも似ていますよね。私たちの祖先は、遠く南方や中国、北方から多様な人種が集まり、日本風土の中に溶け込んだ。

―日本人とサクラの誕生がリンクするのもおもしろいですね。

染郷/サクラを研究しはじめたとき、時折、秋に咲くサクラに遭遇しました。フユザクラという品種です。それまでは、サクラは春を告げる花とばかり思っていましたから、不思議な感じを受けました。単純に「狂い咲き」が安定したということでは理由としては物足りない。これはサクラの進化に関わっているのでは?と思っていました。

―遺伝を研究されてきた染郷先生ならではの着想ですね。

熱海のヒマラヤザクラ全盛期染郷/そしてその頃、ネパール原産と云われる秋に咲くヒマラヤザクラが、熱海市に育っていることを知り、これだと思ったのです。このヒマラヤザクラは、ネパールのビレンドラ前国王が皇太子時代に苗木を送ったもので、11月になるとヤマザクラに似たピンク色の花を咲かせます。
 このヒマラヤザクラを観察することにしたのです。テントを張って一晩中添い寝をして(笑)。そうすると、日本のサクラとは違ういくつかの特徴が見えてきました。秋に咲くのは勿論ですが、ある朝、朝日の中で小鳥が騒いでいたので見ると、花からぽたぽたとミツが降るように落ちてくるのです。

ネパールパルーンの森に残るヒマラヤザクラ―おもしろい光景です!

染郷/この秋咲性のサクラを目の前にしたとき、日本に残っている秋に咲くフユザクラの品種は遺伝学的に言う「先祖返り」の現象だと直感しました。進化の過程で隠されてきた形質が突然現れる現象です。そうであれば「日本のサクラは大昔は秋に咲いていた。そのサクラが寒い冬には休眠をする性質を獲得し、春に咲くサクラに変身して日本にたどり着いた」という壮大な物語が秘められているということになります。フユザクラとして残っているものは、その進化の中で目ざとい育種家が時折発現する変異枝を今日に伝えた品種であると考えられるのです。

―日本のサクラの祖先が、ネパールで秋に咲くヒマラヤザクラが春咲きになったとは不思議な感じがしますね。

染郷/ヒマラヤザクラの花は、日本のサクラにそっくりなのですが、花びらが散らないことや、枝が風に弱く折れやすい性質があることがわかりました。これは、原産地のネパール地方の風土が温暖で、強い風も吹かないことが要因と思われます。

―その風土や自然に合わせてサクラも性質を変えるのですね。

染郷/そうです。ですから逆に、日本のサクラの花びらが散り急ぐのは、春の嵐の風圧からタネを守るための必死な対抗手段です。風の吹かないネパールのヒマラヤザクラにはその必要がないのです。

―花びらの散る姿に感傷的になっている人間を横目に、サクラは必死に自然で生き抜いているのですね。

サクラは合理的で孤独な樹木

染郷/日本人は長い年月をかけて人工的なサクラの山を作り、サクラを愛でてきました。奈良県吉野山は、平安時代からつづく最も古いサクラの名所で、西行法師もその美しさに目を奪われたと歌に詠んでいます。ここは、信仰的な行為の中で植えられたサクラで山全体が覆われているのです。本来サクラは森の中で、500メートルから1,000メートルの間隔でポツリポツリと点在する孤独な生き方をする植物なのですが。

―華やかなイメージのサクラが孤独な樹木とは。意外な感じがします。

染郷/サクラのタネは小鳥によって森の中に散布されます。しかしその時、森は木が生い茂り暗くてタネの発芽が抑えられています。ある時、落雷や自然の倒木などで森に穴ができる。そうすると陽光が差し込んで発芽するのです。根は肥えた腐葉土の中に浅く伸び、栄養を吸って成長し、そして花を咲かせるのです。

―森に抱かれてサクラは花を咲かせる。なんだかとても神秘的です。

染郷/そもそもサクラは別の木の花粉がかからないと受精せず、また、実ができてもそのままでは芽はでません。鳥や動物に食べられて、果肉が消化された後にタネだけが地面に落ちるのです。

―それを小鳥が運ぶのですね!

染郷/緑の森の中に反対色であるピンクや白い花を咲かせるのは、生き残るために動物たちの気を引くための必死な装いなんです。

―戦略的ですね。

染郷/受精からタネの運搬まで、すべて他の生きものたちの世話になるサクラ。どこか貴族に似た雅な生き方をする一方で、森林の生態系の中で極めて合理的な生き方をする樹木ともいえます。

―サクラのはかない美しさに浸っている人間よりもはるかに合理的。

染郷/華麗なサクラの姿は、実は点在して生きてきた孤独ゆえの自己主張です。サクラの生きるための戦いや、したたかさを表現しているともいえますね。

理解して実現する本当の共生

―先ほど先生から「根は肥えた腐葉土の中に浅く伸び」というお話がありましたが、花見といっては、私たち人間はサクラの木の下を踏み荒らします。しかしこれは浅いところに根を張る習性のサクラにとっては大変迷惑なことですよね。サクラの本当の姿を知ることの大切さを感じます。

サクラ研究室にて染郷/多摩森林科学園に赴任して2年目の頃、高知県の通称・西熊山のヤマザクラの大群落についての相談を受けました。南の山腹一帯に咲いていたサクラが衰退し枯死が続出しているというのです。世間ではあのすばらしいサクラを守り復活させようと言う気運が高まっていると。
 しかし、先ほども言いましたように、サクラは孤独に存在するものです。だとすれば、全山サクラだらけになった西熊山のサクラは人為的な伐採か、山火事などの跡地では?と問いました。やはり、その山は100年ほど前に大々的にケヤキを伐採した跡地だったのです。

―そのサクラ林の美しさは、実は自然の姿ではなかったのですね。

染郷/はい。このサクラの山の繁栄は人災によるものだったのです。ですから私は「自然の森は、安定的な自然の姿に還ろうとしているのではないか」という意見を述べた記憶があります。
 ヤマザクラは森林の生態系の中で発芽して育ち、20歳が最盛期です。50歳になると衰退をはじめ、70歳になると約90%が一生を終え、元のシイ・カシ林やブナ林の植生にもどるという厳粛な変遷があります。そしてサクラは別の新天地で命の復活を求める。それがサクラの生き方なのでしょう。

―ただサクラが綺麗だから増やせばいい、守ればいいといった単純なものではないのですね。

染郷/この話は、今から30年も前のことですが、このような「サクラを見て森を見ない」サクラ保護論は今も存在するのではないでしょうか。
 日本人は本当にサクラが好きです。しかしその美しさに目がくらみ、感傷的な思いだけを先行させてはいけないと思います。サクラの生き方を理解してはじめて、サクラと私たちの新たな付き合い方が生まれてくるのではないでしょうか。

―このことはサクラに限らず、環境問題、自然保護を進める上でも大切な視点であると思います。
 今日はサクラを通して様々な森の営みを知ることができました。満開のサクラの下でのお話。忘れられないお花見になりそうです。ありがと うございました。

  
聞き手/法人日本フィランソロピー協会
公益社団法人日本フィランソロピー協会
理事長 高橋陽子