2010年8月号巻頭インタビュー
 
◆巻頭インタビューNo.332/2010年8月号
子どもたちが安心して暮らせる社会を目指して
松井 秀文(まつい・ひでふみ)氏/NPO法人ゴールド・ネットワーク理事長


松井秀文氏 <プロフィール>
1944 年生まれ。1968年、東京大学経済学部卒業。1968年、川崎製鉄株式会社入社。1974年、アメリカンファミリー生命保険会社入社。1995年に社長、2003年に会長、2007年に相談役就任。2008年、NPO法人ゴールドリボン・ネットワークを設立し理事長に就任。

日本における子どもの病死原因の1位が小児がんであることを知っている人はどれだけいるだろう。また、脳腫瘍、骨肉腫など47種類にも渡る小児がんの治療薬が、数年前までたった2種類であったこともほとんど知られていない。
 この知られていない病の治療研究開発に助成し、多くの人に現状を伝える活動を展開するNPO法人ゴールドリボン・ネットワーク。代表の松井秀文氏は、アフラックの社長を退いた後、2008年に同法人を立ち上げた。松井氏に活動にかける思いを伺った。


多くの人に小児がんの現状を知って欲しい

―ゴールドリボン・ネットワークのホームぺージには「年間およそ2,500人の子どもが新たに小児がんに罹患し、全国で16,000人近い子どもたちが 小児がんと闘っている」との記載があります。

松井/年間の罹患者数は2,500人と紹介していますが、2,000人と言う人もいれば3,000人と言う人もいます。小児がんは基本データの少ない、ある意味、知られていない病気といえます。二次がんや心機能障害、免疫不全、慢性肝炎、四肢切断といった合併症で苦しむ子どももたくさんいます。

―小児がんは、今では7割近くが治る反面、その約半数が合併症で苦しんでいるとか。

松井/薬の副作用や、放射線の影響もあるでしょう。しかしそれ以外の要因もあります。合併症がどのように起きているのか、経過を分析するにもそのデータがありません。最近、大人のがんでは、病後の経過をたどるための登録システムもできましたが、子どもの場合は小児がん学会の方々が任意でデータを蓄積するしかありません。そもそも、小児がんの種類は中分類で47と多いのに、罹患者が少ないので、治験データが集まりにくい。だから小児がんの研究には時間がかかります。研究は何年も続けないと成果は見えてきません。しかし、お金が続かない。できるだけ多くの支援をしたいのですが、まだまだ足りていません。

―薬の種類も少ないのですよね。

松井/2006年頃までは、たった2種類だったんです。その後、厚労省が規制を緩めて、現在は10種類の薬(血液のがんを除く)が認可されています。しかしまだまだ、新薬の開発も必要です。

―そんなに少なかったのですか!がんは注目度の高い病気で、研究も新薬開発も進んでいると思っていましたから驚きです。

松井/大人のがんはそうかもしれませんね。がん対策は地方自治体でも進めていますし、乳がん、胃がんなどに対する支援も大きな広がりを見せています。しかし、小児がん対策の予算は減っているんです。大人の方に回ってしまった。そういう意味でも小児がんはまだまだ知られていない、日の当たらない病気の一つなのです。

―がんと闘い、合併症とも闘う子どもたち。必死に生きている姿を思うと胸が詰まります。

松井/このNPOを始めたときは、このような治療研究開発への助成をしたいと思っていました。しかし、現在はそれだけでなく、小児がん患者・経験者のQOL(Quality of Life)向上のための研究開発への助成や、多くの方々に小児がんを知っていただく活動をしています。まだまだやりたいことがたくさんありますが、資金を集めることも大変です。

―資金はNPOの抱える一番大きな課題ですよね。

松井/今は、幸いにもアフラックが応援してくれますし、社員も代理店の皆さんも支援してくださいます。これは非常にありがたいことです。

―アフラック以外にも、売上げの一部が寄付される「ゴールドリボン支援自動販売機」の設置を通して、応援する企業の輪も広がっていますね。

松井/2009年4月に第1号が長野に設置されましたが、その後、全国に広がって、ダイドードリンコ様、コカ・コーラボトリングの各社様、キリンゴールドリボン自動販売機ビバレッジ様、アサヒカルピスビバレッジ様などにもご参加いただき、現在140台になりました。もちろん企業としてご理解をいただいたのですが、社員の方個人が会社に働きかけてくださったこともありました。このようなファンドは草の根的に多くの方のご協力をいただくことが大切だと思います。

―まさに同感です。コツコツと裾野を広げることが大事だと思います。

松井/多くの方に参加いただける仕組みを作ることが大事です。バナナにゴールドリボンマークのシールを貼って、売上げの一部を寄付いただく取り組みもしています。また現在、製紙会社さんではトイレットペーパーの売上げでも同じような仕組みを検討してくださっています。一件あたりの金額1円、2円ですが、多くの方に知っていただき、広がっていくことが大事です。一方で、支援を受ける私たちNPO側も、「ここは支援しても大丈夫」という判断をいただけるようにすることも必要です。ですから経営データなども全てオープンにしています。

―大企業の経営者でいらした松井さんが、NPOを始められたことは、NPO全体の信頼度を上げ、また参加する層を厚くすることにもつながるように感じます。

松井/新入社員研修をこのNPOでさせてくださいというお申し出もありました。NPOのこと、小児がんのことを知っていただくことは大事ですから、ありがたいです。

―小児がんの現状を知れば多くの方が共感しますよね。その他にはどのような活動をされているのですか?

松井/今年4月に開催したチャリティウォークには3,000人が参加しました。ウォーキング協会の方は、チャリティーウォークには3,000人が参加4回目で3,000人だから、すぐに4,000人になると言われています。はじめはアフラック関係者だけでしたが、今では彼らは目立たなくなりました。しかしお金がかかって、大変なのも事実です。

―イベントはきついですよね。でもやらないと広がらない。

松井/そうです。やはり知っていただいて広げていかないといけません。今年は、京都で第48回日本癌治療学会学術集会が行われますが、そこで初めて小児がんの市民公開講座をサポートすることになりました。でも見積書が来てびっくり!しかし、これも知ってもらう活動です。やり遂げなければなりません。

―志と現実。私もいつも悩んでいます。イベントに参加する人たちは、小児がんのことを知るだけでなく、親子のきずな、感謝する気持ち、思いやりといったことの大切さを見直すきっかけになるのでしょうね。

小児がんとの出会いがアフラックへの転職の扉を開けた

―小児がんと出会ったのはアフラックよりも前と聞きましたが。

松井/アフラックに関わるきっかけと言いますか、創業メンバーに加わる決断をしたきっかけが小児がんだったのです。アフラックへの転職に迷っているときに、小児がんでお子さんを亡くされたお父さんの手記に出会いました。白血病と闘うお嬢さんの姿、病院と家との二重生活、経済的負担などについて切実な思いが記されていました。

―その手記を読まれて、すぐに「財団法人がんの子供を守る会」の事務局を訪問された。

松井/はい。そこで他の方の手記も読んで、がんと闘うことは経済的な面との闘いでもあり、がん保険の必要性を心底、感じました。その思いがア松井秀文氏フラック日本社の創業者・大竹美喜さんからの誘いを決断できないでいた私の背中を押したのです。

―大竹さんとはそれまでお知り合いでいらしたのですか?

松井/当時、私は損害保険会社に勤めていましたが、彼はその代理店だったのです。直接は知らなかったのですが、人を介して役所と折衝ができる人材を、ということでお誘いをいただきました。29歳のときです。

―しかし、がん保険を扱うアフラックからの誘いと手記との出会いが重なるなんて、運命的なものを感じますね。

松井/アフラックの副社長から社長になる時期に、代理店と共に社会貢献活動をしていこうという話が持ち上がりました。継続的に行える社会貢献ということで、代理店さんと一緒に、がん遺児への奨学金(公益信託アフラックがん遺児奨学基金)を始めました。これは返還の必要がない奨学金です。その5年後には、アフラックペアレンツハウス/Aflac Parents Houseを作りました。そして、今でも社員や代理店の皆さんが、この取り組みを続けてくださっていることを誇りに思います。

アフラックペアレンツハウス
小児がんなどの難病治療のために、遠隔地から大都市圏の病院に入院する子どもの家族の経済的(宿泊施設の提供)、精神的(ソーシャルワーカーの常駐)な負担の軽減を目的とした総合支援センター。

―がんと闘う人を応援したいと思った志を、事業でも社会貢献でも実現された。筋の通った生き方をなさってきたのですね。

お客様に喜んでいただける仕事に出会えた幸せ

―松井さんは東大経済学部を卒業されて、はじめは川崎製鉄に就職されたのですよね。エリートコースを進んでこられたのに(笑)。

松井/当時、私は倉敷の水島にいました。製鉄所を作っている真っ只中で、おもしろい時期でしたね。しかし、コンピュータの前で仕事をしている自分に、これが俺の仕事か?と問いかけもしていました。1年に1度自己申告できる制度があり、自分が何をしたいのか、別紙付きで人事に出したのですが反応はありませんでした。従業員は30,000人近くいます。仕方ないですよね。でも、やっぱり違うよな…と。それで辞めたのです。

―次にしたいことがあったのですか?

松井/いえ、ありませんでした。とりあえず、損保会社に決めました。それも、独身寮の先輩と酒を飲みながら、保険会社は楽でいいぞと聞いたか松井秀文氏らなんです。正直、次のことを考える時間を作るために就職したということです。

―とりあえず、なんですね。その損保会社さんには申し訳ない感じですね(笑)。

松井/そうですね。しかし、1年半で新商品も作りましたから許してもらえるかな。恐らく日本で初めての自動車保険の月払い制度です。しかし、この「とりあえず損保に」がなかったら、大竹さんにも出会わなかった訳ですから、人生はわからないですね。

―松井さんは、もともと起業創業に関心があったのですか?

松井/経営をしたかったことはありますね。大学に入ってすぐに自分で塾を作りました。家庭教師より効率がよいと思い、仲間と始めました。

―パソナの南部さん(株式会社パソナ代表取締役・南部靖之氏)のようですね。

松井/私は卒業するときに、これを事業にすることを考えませんでした。塾は後輩に引きついでもらって。私は南部さんより頭が良くなかったですね(笑)。でも、川崎製鉄に入って、組織を学べたことがとても良かったと思っています。川鉄には4年間いましたが、アフラックの経営もそこで習ったことを実践していました。まず全体を考えないとシステムはできないということです。マクロを捉えてミクロに落とし込む。NPOを作るときも同じです。ミクロから考えてはいけません。経営がおかしくなるのは、大体において、細かいことがその先でつながっていないからなのです。

―川鉄に感謝ですね。でも辞めるとき、お母様は悲しまれたのでは?

松井/泣きましたね(笑)。ただ、母は、私は束縛されるとだめな人間だということを知っていましたから、自由にさせてくれました。5人兄弟の下から2番目ですから。

―今は喜んでいらっしゃることでしょうね。

松井/はい。私自身、アフラックの仕事に携われて本当に感謝しています。アフラックの社員は、お客様から直接感謝される機会が、他の業種の方よりも多いと思います。保険のお陰で経済的な心配をしなくても病気と闘えた。そんな手紙をいただきます。がん保険を始めた当初、がんを扱っているが故に、お客様から「俺を殺したいのか」とか「縁起でもない」と言われたこともありましたが、後に感謝されたりもしました。やりがいのある仕事です。がん、命に関わるこの仕事に就けて本当にありがたかったと思っています。

―自分の仕事と会社に誇りを持てることは大切です。アフラックの社員の皆さんは、お客様に感謝されて幸せですね。

医者が医療に専念できる環境を作ることが大事

松井/実は今、地域の中核病院の経営にも関わっています。それですごく忙しくて。

―そんな仕事までされているのですか!最近は、病院の経営難や小児科が減少していると聞きますが。

松井/その病院にも小児科がありますが採算が合わず赤字です。でも支えないといけない。子どもが少ない、子どもの命が大事といいながら、一 方で採算が合わない仕組みがある。矛盾していますよね。

―病院の先生が、そのような状況の中で経営の舵を取るのは難しいでしょうね。

松井/基本的に医師は医療に専念するべきだと思います。医師は医師の言うことしかきかないという声もありますが、病院には経営をマネジメントする専門家が必要だと思います。そのような人材を育成して病院経営に当れば、医療費の伸びも抑制出来るように思います。病院には、非効率なところが多くあるように思います。これも仕方ないのかも知れません。医師の方々は経営のトレーニングを受けていないのですから。

―大学も病院も、経営の専門家が経営者になっていないという課題を抱えていますね。

松井/医師にも経営を両立させている立派な方はおられます。しかし、それは一部にすぎません。それでなくても、医師は疲弊しています。そもそも、医療者がへとへとになって働かないと回っていかないということもおかしい。人の命を守る病院ですよ。現在の報酬体系も問題でしょう。

―「小児がん」のことを考えると、日本の課題が浮き彫りになりますね。

松井/医療のあり方については色々と言われますが、まずは医師が医療に専念できる環境をつくり、そしてそこで彼らがスキルを上げて社会に役立つには何が一番大事かを考えないといけない。

―松井さん、やるべきことがいっぱいありますね。

子どもの可能性を救いたい

―そんな松井さんですから、他にもいろいろなことを依頼されているのでは?

松井/養護施設の後援会長もやっています。施設の子どもたちは高校を卒業すると施設を出ないといけません。なかなか大学に行けません。この子たちに希望を持ってもらいたくて、勉強がしたいのなら、後援会が学費を全部だしてあげることにしたのです。そうしましたら、1名が大学に、2名が専門学校に進学しまして、今年、そのうちの1名が幼稚園の先生になりました。「子どもの可能性を救ってあげたい」これが私の大事なテーマです。がんの子どもも、養護施設の子どもも、あきらめないで生きてほしい。

―子どもは親も健康も選べない。それで人生全てダメということはあまりにもかわいそうです。

松井/そうです。私たちの活動はアフラックの代理店さんにも支援をいただいています。その中から、今、自発的に地域支援に取り組む方々がでてきています。高齢者の活動への支援であったり内容は様々ですが、ボランティアに参加する方が増えています。

―子どもの可能性、地域の可能性を引き出すために、松井さんのような経営のプロの活躍がこれから益々必要とされるように思います。最後に夢をひと言お願いします。

松井/難しいですね。私は夢を追いかけないから(笑)。私の使命は子どもたちが元気で安心して暮らせる環境を作ることです。それが少しでも果たせるよう活動することが私の役割だと思っています。

―社会のお医者さんですね。

松井/私がこうした活動ができるのもアフラックで過ごせたおかげです。そしてそのアフラックが成長できたのは日本のおかげ。日本に恩返しをしたい。私の活動は恩返しです。

―ボランティアという言葉を日本語に訳すと、「恩返し」なのかもしれません。ありがとうございました。

聞き手/法人日本フィランソロピー協会
公益社団法人日本フィランソロピー協会
理事長 高橋陽子