2011年10-11月号巻頭インタビュー

◆巻頭インタビューNo.344/2011年10-11月号
私の役割は、
若者に「やりがい」と出会える機会をつくること
小柴 昌俊(こしば・まさとし)氏
公益財団法人平成基礎科学財団 理事長/東京大学特別栄誉教授
小柴昌俊氏
<プロフィール>
1926年愛知県豊橋市生まれ。1951年東京大学理学部物理学科卒業。1955年米国ロチェスター大学大学院修了。1958年東京大学原子核研究所助教授。1970年東京大学理学部教授。1987年東大を停年退官、同大名誉教授。同年東海大学理学部教授。2003年財団法人平成基礎科学財団を設立し理事長に就任。2005年東京大学から特別栄誉教授の称号を受け、現在に至る。
その間、1983年、岐阜県神岡にてKamioka Nucleon Decay Experiment ( カミオカンデ) 実験開始。1987年2月23日、超新星からのニュートリノを観測。この功績で、1987年仁科科学賞、1988年朝日賞、1989年学士院賞、1997年藤原賞を受賞。また、1988年に文化功労者、1997年には文化勲章、2000年にはイスラエルWolf賞を受賞。そして、2002年ノーベル物理学賞。2003年米国・ベンジャミンフランクリンメダル、勲一等旭日大綬章。2007年イタリア・Erice賞を受賞。

小柴昌俊氏 ― 日本が誇る世界的物理学者。超新星からの素粒子ニュートリノを検出した功績が認められ、2002年にノーベル物理学 賞を受賞するなど、素粒子物理学、宇宙線物理学の分野で、50年以上にわたり世界を牽引し続けている。そんな小柴氏には教育者としての顔がある。「これまで手がけた実験や研究は、すべて学生たちの<やりがい>を見つけるためにしてきたこと」と小柴氏は言う。現在は、ノーベル賞の賞金などを投じて設立した平成基礎科学財団で、若者たちの好奇心や探究心に応える高度で良質な科学教室を開催している。小柴氏のお話から、子どもたちの生きる力を育む大人の役割について考えてみたい。
実験物理との出会いが人生を変えた
―先生の著書(※注1)を拝読しました。その中で「『挫折』とは、『もうダメだ』とあきらめることだ。本当にやりたいと思ったことは、やり続けることができる。だから挫折はしない」とおっしゃっています。先生はこの言葉の通り、これまでどんな困難に遭遇してもあきらめずに進んでこられました。しかし、最近は、少し困難にぶつかると挫折して、動けなくなる大人も子どもも多いと感じます。先生はどうお感じになっていらっしゃいますか。
※注1:『「本気」になって自分をぶつけてみよう~人生を抜群に面白くする私の20の方法~』(小柴昌俊著・三笠書房発行)
小柴/そういう話題でアドバイスを求められた時、僕はこのように答えます。「人は他人から与えられた仕事で、困難に出会うと心が折れちゃう。しかし、これなら俺やれる、私やりたいわ、と感じた仕事であれば、どんな困難に出会ってもやめようという気にならないよ」と。受け身ではなく、自分がやろうと決めて始めたことはやめない、ということです。先生がやれと言った。お父さんが医者になれと言った。良い子だからそれに従っている。そういう場合は弱いですよ。自発的にやろうという気になった人は強いのです。
―内発的な思いが心を強くするんですね。しかし、自分のやりたいことが見つからない若者も多いのではないでしょうか。
小柴/そういう意味では私も奥手で、素粒子の研究をしようと決めたのは、大学院2年生のときです。東大の物理学科を卒業したときの成績は悪くてね。その上、不況で就職口も多くなかったから、とりあえず大学院に進んだのです。でもその時はまだ何をしたらいいかがわからなかった。
―大学院では素粒子の研究室に入られて。
小柴/素粒子理論という「理論物理」の研究室に入れてもらいました。しかし、出遅れていた僕がこの分野で飯が食えるとは到底思えなかった。そんな時に研究室の先輩が「一緒に実験をしませんか」と誘ってくれたのです。空から降ってくる素粒子を調べるというものだったのですが、この「実験物理」との出会いが大きな転機となりました。それ以来ずっと素粒子の実験を続けているんですからね。ノーベル賞につながったカミオカンデの実験(※注2)も、この時の実験の延長線上にあるんですよ。
※注2:カミオカンデは、岐阜県神岡鉱山跡の地下1,000メートルに作られた実験装置。直径15.6メートル、高さ16メートルの水槽に純水3,000トンを満たし、水槽内壁には、この実験のために浜松ホトニクス株式会社と共同開発した、直径20インチの光電子増倍管が約1,000個配置されていた。1987年2月23日、17万年前に大マゼラン星雲で起きた超新星爆発の素粒子ニュートリノを、カミオカンデの水槽で検出。この功績により、 2002年小柴昌俊氏はノーベル物理学賞を受賞。ニュートリノとは、万物を形づくる最も基本的な粒子のひとつ。大爆発(ビッグバン)直後の「生まれたての宇宙」にはニュートリノが大量に作られる。
―この実験で、先生は夢中になれるものを見つけられたわけですね!
小柴/だから僕は若い人に「物怖じしないで、いろんなことを体験しなさい。そうしているうちに、これならというものが見つかりますよ。見つかったらしめたものだよ」と言っています。そして「自分のやりたいこと」は探すよりも、まず目の前にある「自分ができること」から始めるのもいいことだとね。
―実験物理の世界にご自身の進む道を見出された先生ですが、中学生のころは、チャイコフスキーの白鳥の湖に感動して音楽家になりたかったと。
小柴/そう思ってから、半年もしないうちに小児まひに罹り、右手にマヒが残りましたから、はかない夢になりました。
―当時は足も不自由だったのに、歯を食いしばって歩いて学校に通ったことがリハビリとなり、歩けるようになったというお話には感動しました。小さい頃から、まさに「自分ができること」に全力で取り組んでいらっしゃった。困難に立ち向かう中で、新しい世界を開拓していくその強さは、ご両親から与えられたものでしょうか。
小柴/僕の生き方に一番影響を与えたのは、4歳のときに母が亡くなったことだと思います。「自分でなんとかしないと」という生き方をいつの間にか身につけたのでしょうね。
―天国でお母様、良くがんばったとおっしゃっていることでしょう。
小柴/冥土に行ったら聞いてみましょう(笑)。
教師の仕事は 「やりがい」 と出会える機会をつくること
―小柴先生は、よい先生や先輩にたくさん出会われていますよね。その中でも朝永振一郎先生(1965年ノーベル物理学賞受賞)を人生の師として尊敬していらっしゃる。
小柴/いい先生でしたね。「ウマが合った」としか言いようがないんです。その人を好きになるか、嫌いになるかは、出会って5分も一緒にいたら決まっちゃいます。理屈ではないんですね。朝永先生も僕を気に入って、とてもかわいがってくださいました。ある時、他の教え子に怖い顔をされていたことがあって「先生怖いんですね、僕は怒られたことがないから、初めてあんなに 怒った顔を見ました」と言ったら、「君は僕が怒っているのがわからないんだよ」ってニヤッと笑われて。それは、「小柴のために私がどんなに動いたか、君は気づいていないんだよ」ってことだったと思うんです。
―そんな素敵な先生に私も出会いたかったです!
小柴/東大をビリで卒業した人間が、東大の助教授に応募しても普通は受からない。それでも僕が合格できたのは、朝永先生が見えないところで推薦してくれていたからなんでしょうね。しかし、先生は「動いている」素振りさえも見せませんでした。だから、何十年も後になって気づいたのです。あのときも、このときも助けてくれたのは朝永先生だったと。
―朝永先生にかわいがってもらったように、先生も若い人を応援されてきたのですね。
小柴/東大の教師になると、毎年、大学院生が2、3人研究室に入ってくるわけですが、僕は「教師がやらないといけないことは何だろう」と考え込んだことがありました。そして「理論屋をあきらめた自分が、難しい公式を教えても付け焼刃に過ぎない。それよりも、学生一人ひとりに、やる気が起きることを探してあげる。これが教師として私がすべき最も大事なことではない か」と気づきました。カミオカンデをつくったときも、「こういうのをやってみてはどうかと思うのだけど」とその年の学生に話したら「やりたい、やりたい」と乗ってきて。ある学生は、ヨーロッパの国際共同実験に送り込んだら、生き生きしてそこで学位論文作り上げましたよ。僕は「こいつはどんなことに喰い付いてくるかな」といつも考えていましたね。それは一人ひとり違うんです。みんな同じことやらせるのは良くない。
―それぞれの「やりがい」を見つける。先生が新しい研究や実験をてがけるモチベーションは、そこにあったわけですね。
小柴/若い人の可能性を開いてやらないといけませんからね。ソ連での共同実験がダメになったときは、その足でイタリアに向かい、そこでもダメならドイツに乗り込んだ。そんな苦労も「若い人たちがやりがいを感じる機会を、なんとかしてつくってやりたい」そう思ったからできたことです。
―小柴先生に出会えた学生さんたちは幸せですね。それにしても先生は本当にあきらめませんね。
国民の血税を使う責任
―カミオカンデの実験における、浜松ホトニクス(注2)の晝馬輝夫社長(現・会長)との交渉でもあきらめない先生の姿がありますよね。14インチが精一杯という相手に、20インチの大型センサー(光電子増倍管)を作れと言って。どうしても首を縦に振らない晝馬さんに、最後は誕生日を聞いて、「私の方が1日早い。年長者の言うことは聞くものだ」と説得されたと(笑)。
小柴/その言葉が効いたかどうかはわかりませんが(笑)。あの社長とも「ウマが合った」んですね。もともと浜松ホトニクスは、僕の教え子が見つけてきた会社で、カミオカンデの実験を始める10年くらい前にも一緒に実験をしました。その時も何度も突っ返しましたが、最後まで作り上げてくれて。予算が湯水のようにあるわけではないので、やる気があって本気になってくれる会社を見つけることが大事だったんですね。
―そして浜松ホトニクスは、見事、20インチの大型センサーを作りあげたのですね。
小柴/でも、出来上がって若い社員が請求書を持ってきた時、一目見て僕は「こんなに払えないよ」って言ったんです。無理を言ってお願いしたのに、1本30万円の請求に「原価計算をしてみたら1本13万でできる。だから13万2,000円払うよ」と。結局、最後は先生とはケンカできないと、13万2,000円で落ち着きました。しばらく晝馬社長からは「先生のお陰で3億円赤字がでた」とこぼされましたよ。しかし「カミオカンデで超新星ニュートリノを捕まえることができたのは、この大きなセンサーがあったから」ということを世界中のマスコミが取り上げるようになってからは、機嫌が良くて(笑)。結果的に、浜松ホトニクスが世界のマーケットの60%以上を占めているのだから、良かったのではないですかね。
―なるほど。しかし、お金に関して先生は商人のような厳しさを持っていらっしゃる。
小柴/僕は学生に「おれたちは国民の血税を使わせてもらって、夢を追っているんだ。だから業者の言い値でモノは買うな。国民の税金を無駄にしたら申し訳ない」と繰り返し言ってきました。この時も文部省に申請して1億円国費を出してもらっていましたが、これも国民の税金です。そのようなお金を使って研究や実験をするときは、本当に責任を感じてほしい。他でまき散らかしている姿を見ると腹が立ちます。
目先の利益では計れない基礎科学の魅力
―先生のパワーには脱帽ですが、今は若者を支える教師自体に元気がないように感じます。
小柴/太平洋戦争後、国は民主主義の掛け声に押されて国立大学をたくさん作りました。戦前は9つだった旧帝大が、2000年には99校になりました。そこまでくると、大学の先生が自由に研究できるゆとりのある支えができなくなります。それで、2002年頃、新聞やテレビでも、国立大学を独立行政法人にするということが話題となりました。僕は反対ではありませんでした。国立大学だと、例えば東大は日本国籍を持っていないと教授になれません。どんなにすばらしくてもなれないというのはおかしいと思っていましたからね。一流の大学は世界に開けていないといけません。
―2003年に国立大学法人法ができて、翌年の4月に国立大学は国立大学法人に移行した。国立大学の独立行政法人化ですね。
小柴/しかし、独立行政法人になったら研究費が減らされて、必要なお金は自分で稼げ、独立採算でやれということになったわけです。その結果、教授たちも考え方がせせこましくなって、その場の利益だけに目がいくようになってしまった。産学協働も、企業の利益に結びつく工学部、農学部、薬学部などは可能ですが、理学部や文学部では成立しませんよ。前者は、稼ぎを生み出す科学技術を進歩させる応用科学だから、 関係する産業が応援します。しかし、利益の見返りがない物理学のような基礎科学に、企業はお金を出しません。
―1960年代、先生が研究費をもらうために、三菱グループの会社の社長に会った時のエピソードを思い出します。「その実験は、日本の産業界に役立つことがありますか?」と聞かれて、先生は、ウソは言えないからと「役に立つかどうかは100年くらい経つとわかります」と答えられた。でも、その社長は気に入ったとお金を出してくれて。未来への投資をしてくださったのですよね。
小柴/20世紀に入る少し前に電子が発見されました。その時はこの電子が世界中の生活を変えるなんて誰も思わなかったでしょう。しかし、50年も経たないうちに、電子を使ったエレクトロニクスができたのです。今、それがない世界なんて考えられないでしょ?電子の反素粒子である陽電子も最近、PETというがん検診などで使われるようになりました。しかし、この2つは例外中の例外。20世紀は物理学がものすごく進化した時代と言われていますが、96種類ある素粒子、反素粒子のうち、この2つ以外の94の素粒子なんて何の役にも立っていないのです。
―えっ、そうなんですか!それでは基礎科学の魅力とは何でしょうか。
小柴/自然を理解すること。昔は神様が全部作ったと言われて納得していましたが、調べてみると神様ではなく、宇宙はビックバンから始まったんだとわかってきた。92種類ある元素はそれぞれに、いつ、どこで、どのように作られたかもわかってきた。それだけでも喜びじゃない ですか。
―この喜びが生きる力に繋がるように感じます。しかし、基礎科学にお金が集まらない理由もわかってきました。
科学を学びたい若者にチャンスを
小柴/目先の利益ばかり重視する国立大学は今、非常に悲しい状態だと思いますよ。そんな状態では基礎科学の分野に意欲ある学生がいなくなってしまいます。日本が文明国なら、儲けにすぐにつながらない研究でも、国家予算の何%かはつけるという見識が欲しいのです。
―これでは優秀な学者が、どんどん海外に出て行ってしまいますね。
小柴/しかし、大多数の若者は国外ではなく国内で学ぶわけで、日本から良い先生がいなくなるのはかわいそうです。それで僕は、自分から進んで科学を勉強したいという若い人たちに、学ぶチャンスを与えてあげたくて、平成基礎科学財団を創設したのです。
―財団ではどんなことをされているのですか?
小柴/ほぼ毎月「楽しむ科学教室」を開催しています。これは、高校生と大学生を対象にした授業です。毎回その分野で活躍する第一人者を招いて、講義をしてもらいます。高校生だからと言って、学問的なレベルを下げることはありません。それから「小柴昌俊科学教育賞」を設けて、科学の面白さを伝える活動で成果をあげている団体、個人を顕彰しています。
―先生や、子どもたちを支援する人を元気にすることも大切ですよね。それから、開催したいとおっしゃっていた、リンダウ(※注3)のアジ ア版は実現されたのですか?
※注3:リンダウ・ノーベル賞受賞者会議。世界各国の若手研究者の育成を目的として1951年に開設。毎年、ドイツ南部の町・リンダウ(Lindau)で開催されている。毎回20名程度のノーベル賞受賞者が招かれ、各国から集った若手研究者に対して講演を行い、参加者とのディスカッションに応じる。
/はい。アジア・サイエンス・キャンプ(ASC)として、2007年に台湾で始めてから、2009年は日本で、昨年はインドで行い、今年 は8月に韓国で開催しました。毎回、ノーベル賞受賞者が10名くらい参加します。やってよかったと思います。
―科学教室やASCを通して「私はこれがしたい!」と自分の夢に出会えた若者もいることでしょう。先生が大学院で実験物理に出会ったように。
小柴/僕は、子どもたち全員が科学を好きになってくれることを望んでいるわけではありません。ただ、科学を好きになれるタイプの子が、教え方が悪くて好きになれないのはかわいそうだと思うのです。そういうことがないように、チャンスをたくさんつくっていけたらと思っています。
―これまでの、先生を愛し期待する先輩たちとの邂逅と、それに応える先生の不断の努力の結実がノーベル賞であり、財団設立なのですね。まっすぐに努力する心を若者にしっかり植えつけていただきたいと思います。私も多くの学びをいただきました。圧倒的に努力が足らないと自覚しました(笑)。つべこべ言わずに精進します! ありがとうございました。
聞き手
公益社団法人日本フィランソロピー協会
理事長 高橋陽子