No.353巻頭インタビュー

◆巻頭インタビューNo.353/2012年12月号
ネパールの子どものために奔走する
江口 貴博(えぐち・たかひろ) 氏
AMDA兵庫県支部 支部長
江口貴博氏<プロフィール>
1965年、徳島県生まれ。神戸大学大学院卒。脳神経外科医。AMDAネパール子ども病院の資金集めに専念するため、2000年4月から非常勤勤務を掛け持ち。2007年、AMDA兵庫県支部発足と同時に支部長就任。神戸市在住。
特定非営利活動法人アムダ(AMDA)とは…
災害や紛争等の際に、医療・保健分野を中心に緊急人道支援を行う団体。1984年設立。国連総合協議資格取得。AMDA は、設立時の The Association of Medical Doctors of Asia (アジア医師連絡協議会)の頭文字。HPは こちら
医療・保健衛生分野を中心とした緊急人道支援活動を展開する、特定非営利活動法人アムダ(AMDA)の兵庫県支部長・江口貴博さんの本職は、脳神経外科医。診療の傍ら、AMDAネパール子ども病院の支援活動を展開している。阪神淡路大震災を契機に始めたボランティア活動は、「傍ら」というにはあまりにのめり込んでいて、ボランティアの域を超えたもの。7つの病院を駆け回りながらネパールの子どもたちの医療支援に奔走する江口さんに、熱い思いを語ってもらった。
生かされた命を全うするために働きたい
―徳島の病院での当直に引き続いての午後6時までの診察。それを終えられてから車で2時間。お疲れでしょう。
江口/いえいえ、大丈夫です。こういう生活が日常ですから。
―非常勤勤務医として、7軒の病院を掛け持ちしておられるとか。
江口/もともとは兵庫県立こども病院に勤務していたのですが、AMDA兵庫県支部の財務担当のボランティアを始めたら、スポンサー企業の社長とせっかくアポが取れたのに、緊急手術などが入るとキャンセルせざるを得ない。どちらも中途半端になってはダメだと思って、思い切って全て非常勤に切り替えました。7軒だと、週に1回ずつ休ませて貰ったら、ネパールに1週間行けますから。
―ええーっ! ボランティアを優先ですか!?  
江口/脳神経外科医の代わりはいますが、医師であり、ネパールの子どもたちのために尽くしたいという人はあまりいないかなと思って。
―江口さんを突き動かしたものは何だったのでしょう?
江口/やはり、阪神淡路大震災がきっかけですね。あの時、死んでいてもおかしくない状況で命を与えられた。生かされた命なのだから、人のため、特に子どものために尽くしたいと思ったんです。あの時の3日間は忘れられません。死に物狂いで、怪我をして駆け込まれた方々の診療に当たりました。
―神戸の人たちは、あの時の多くの人たちの支援を忘れずにいて、東日本大震災の時も、親身に寄付やボランティアに奔走されました。
江口/あの時の恩返しをしたいという思いが強くありました。
―元々、子どもの医療にご関心がおありだったのですか?
江口/ええ、徳島大学医学部の最終学年の実地研修をしていた時、小児脳腫瘍の患者さんがいて、その親御さんに病状の説明をしている間、そのお子さんが、じっと黙って聞いており、ただ、目から一筋の涙をこぼしたんです。それを見た時、子どもの命を救う仕事をしようと決意して、小児脳外科で有名な神戸大学病院に勤務しました。
―それが、ネパールの子どもたちの支援につながっていくのですね。それも、自然に導かれたようなご縁がきっかけだとか。
ネパール子ども病院設立に奔走
江口/ええ、兵庫県立こども病院に研修に来ていたネパールの医師の「ネパールにも子ども病院を作りたい」という夢から始まったのです。そして、阪神淡路大震災が起きまし た。そして、たまたま病院の宴会で隣に座った医師が、AMDAで子ども病院設立のために活動を始めていたんです。それで、資金集めの担当者として応援してくれと頼まれたんです。僕は、人懐っこいし、物怖じもしないから向いていると思われたんでしょうね。
―大当たりでしたね( 笑)。どのような方法で資金を集められたんですか?
江口/まず、僕の行きつけの店に募金箱を置いてもらったんですよ。ある程度募金箱に寄付が溜まった頃に回収に回る。その時、飲んで食べてお金を落とす。これを繰り返していると、すごい出費なわけですよ(笑)。見かねて、神戸市薬剤師会の方が、薬局などをまとめてくださって、集金がスムーズにできるようになりました。その他、特に大震災の時の援助へのお礼をしたいという気持ちから、資金が集まり、98年11月2日に開院しました。翌年には入院・救急の受け入れ、婦人科も開始しました。建物の設計は、建築家の安藤忠雄さんが、ボランティアで担当してくださったんです。
―江口さんたちの思いが多くの人の心を動かした。シッダルタチルドレン&ウイメンズホスピタルというのがネパールでの病院名ですね。
江口/シッダルタというのはお釈迦様のご幼名なんです。遠くから伝来した仏教に因み、日本とネパールの架け橋にという思いで付けられました。首都カトマンズから西に200キロの、インド国境に近いブトワール市にあります。
―2000年12月には、その資金集めのために、有志で「無限会社・奇兵隊」を作られた。
ネパール子ども病院江口/いろいろな事業を考えるうち、辿りついたのが「高麗人参果実搾りプロジェクト」です。一本150円ですよ。ありえない値段ですが、おいしいですよ。僕、ソムリエの資格も持っているので、味にはこだわりました!でも広告・宣伝にお金を回せず苦戦しています(笑)。
―ご苦労を経て、医療状況はどのように改善されたのでしょう?
江口/1900年ごろのネパール国内の5才未満の乳幼児死亡率は、日本の約25倍、妊産婦死亡率は約60倍でした。ネパール政府は90年代から、乳幼児死亡の減少を最優先課題に掲 げ、予防接種などの対策を実施していました。ですから、我々の子ども病院支援活動には、非常に大きな期待が寄せられました。そして、2006年の乳幼児死亡率は1990年に比べ半減しました。
阪神大震災の支援への恩返しで設立した病院
―大きな成果ですね。これまで、多くの方々のご尽力があったと思いますが、病院設立に奔走なさった篠原明先生が志半ばで他界なさったのですね。
江口/先生を記念して「篠原記念小児病棟」が2002年に開設され、新生児・小児のための集中治療室を備えました。実際、彼の情熱と阪神淡路大震災被災者に対するネパールからの支援に共鳴した毎日新聞社会事業団とAMDAの協力で「ネパール子ども病院」開設が実現したのです。
―そして、10周年記念式典は感慨深いものだったとか。
ネパールの子どもたち江口/本来10周年のお祝いは、病院設立の11月2日に行うのが普通ですが、翌年の1月17日に行いました。それはこの病院が、阪神淡路大震災の時に頂いた支援に対するお礼として、被災地からの寄付が集まってできた病院だからです。阪神淡路大震災では6,434人が亡くなられました。そして、まだ心の傷が癒えていない方々も多くおられます。一方、その感謝の思いでできたこの病院では、40万人もの女性やこどもたちの病気が癒され、そして2万人もの赤ちゃんが誕生しています。その現地で震災物故者の慰霊を行うことで、少しでも心が癒されるのではないかと考えたのです。また、ネパール子ども病院でも、治療の甲斐なく亡くなった女性たち、子どもたちがいます。そういう女性や子どもたちの慰霊もいっしょに行うことで、お互いに大切な人を思いやる気持ちを共有したいと考えました。
―10周年を記念して設立の経緯を描いた「ありがとぅね」という絵本も出版なさったとか。
江口/僕の大学の同級生の医師、鈴記好博くんに頼んで制作してもらいました。ネパールでは無償配布。日本では1冊500円で販売しました。歌手のダ・カーポさんは、病院の応援歌「命の花」を歌ってくださいました。
―どんな内容ですか?
江口/ネパールに住む昼寝好きの牛が主人公です。お気に入りの寝場所に病院が建ち、最初はがっかりするのですが、病院の役割を知り、住民の優しさに触れて感謝する話。アクリル絵を使った明るい色調で、ほのぼのと描かれています。両国の子どもたちに子ども病院設立にまつわる物語を知ってもらうことと、新病棟建設資金に充てるために作りました。
―江口さんのご縁がつながって、支援のすそ野もどんどん広がっていますね。そして、昨年は、東日本大震災がありました。すぐに駆けつけられた。
江口/3月12日に釜石と大槌に医師の派遣をし、私も3月末に避難所での医療支援に駆けつけました。
―阪神淡路大震災の時の体験が活きましたか?
江口/最初の3日間を踏ん張れば、外から応援が入ってくれるので、そこを乗り切ることが大事です。ただ、今は外科的な支援ではなく、メンタル面での支えや、健康支援など が必要になってきていますので、私は、後方支援に徹しています。
真のプロボノは、相手のためにひたむきに自分の力を出し続ける
―江口さんの活動は自然体なんですね。要は、相手のためになることをするということに大きな意味がある。
江口/自己実現が目的化してはだめだと思います。ネパールでも、東北でも、してあげたいことを優先するのではなく、必要とされていること、そのために自分を活かせばいい のです。それが結果として喜びや自己実現につながるのだと思います。
―ボランティアの原点ですね。 ネパール子ども病院も、まだまだ課題が山積ですか?
江口/本当にそうです。診療は無償ではなく、初診料は、私立の病院の10分の1程度で20ルピー(1ルピーは約1円)にしているので、遠くから2日間もバスに乗ってやってくる 母親もいます。新生児治療室を備えてから、2005年には19%の新生児の死亡率が2006年には6%に下がりました。でも、まだまだ設備は不足しています。保険など制度面での整備も必要です。それに、抜本的に、親たちが収入を得る道を探ることもしなければなりません。
―その点では、どういうことを考えておられますか?
江口/ステッチ刺繍を教えて、それを絵画にして売るなどの仕事づくりを考えています。モンゴルの大学も巻き込んでと画策しています。
―どんどん人を巻き込んでいかれるのですね。しかも自然にネットワークも広がっている。医師としての仕事も、AMDAの仕事も、それに知的障碍者のパン作りの作業所を運営するNPO 福祉苑リーベの会の理事長の仕事もすべて自然につながっていっている。それにしても超人的ですねー!
江口/ やはり、亡くなった病気の子どもたち、阪神淡路大震災で亡くなった人たち、一緒にがんばってきた仲間の死。その人たちへの思い、その人たち自身の思いを原点として、すべての活動に携わっています。ネパールの子どもたちも大事、でも、今、私を頼りにしてくださっている患者さんも大事。すべての人とのご縁を大切にしていきたいと思います。
―その縁が江口さんの元気の素なのですね。プロボノは、本業を核に、それを核分裂させ、課題解決のために、人も巻き込みながらどんどんチャレンジをする人のことだとわかりました。ありがとうございました。
インタビュー
公益社団法人日本フィランソロピー協会
理事長 高橋陽子