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まちかどのフィランソロピスト賞

〜個人の寄付文化醸成のために〜 「まちかどのフィランソロピスト賞」<一般部門>・<青少年部門> 受賞者決定

 社会に役立つ寄付を行なった人を顕彰する『まちかどのフィランソロピスト賞』。
 2007年度は、全国より、一般部門45件、青少年部門36件のご推薦をいただき、選考委員による書類選考およびヒアリング選考を経まして、下記の通り、受賞者が決定しました。

第10回「まちかどのフィランソロピスト賞」受賞者

  • まちかどのフィランソロピスト賞
    宗次 徳二(むねつぐ とくじ)さん/カレーハウスCoCo壱番屋 創業者
  • 特別賞
    北澤 豪(きたざわ つよし)さん/財団法人日本サッカー協会国際委員
  • 青少年部門
    高知市立高知商業高等学校

贈呈理由

まちかどのフィランソロピスト賞 宗次徳二さん

 宗次徳二さんは1948年石川県生まれ。生後すぐに兵庫県尼崎市の児童擁護施設に預けられ、未だに実の両親は不明。3歳の時、子どもに恵まれなかった同市在住の雑貨商を営む夫妻に引き取られるが、それ迄まじめであった養父が競輪にのめり込み、全財産を失い借金に追われる生活となる。父は母が内職で得た生活費も取り上げるようになる。父親の暴力に耐えかねた母は家出。電気、ガス、水道を止められたアパートで、ろうそく1本の明かりのもとで暮らすような父子二人の生活が始まる。父に殴られることもひんぱんであったが、同行したパチンコ屋でこぼれ玉やシケモクを集めて渡すとニッコリ微笑んでくれるような父が大好きな少年であった。母は、一旦は一緒に暮らすものの、競輪にのめりこんだ父に愛想を尽かし再び別居。父と母の間を行き来する中学校時代を経て全日制高校の商業科に入学する。全日制の高校生活は、生活費を工面するためのアルバイトの負担が大きく、赤点続きで中退の瀬戸際に立たされた。苦手な数学の試験の最中に、“養父の危篤”が知らされる。養父はほどなく亡くなったが、境遇を知った学校が進級させてくれた。「もし高校を卒業できなければ、その後の運命は違うものになっていたかもしれない」と、結果的に卒業を助けてくれた父に感謝の気持ちを持つ。卒業後、入社したダイワハウス工業で、妻となる直美さんと出会う。1972年に二人は結婚。不動産業で独立するかたわら、結婚2年後に直美さんの提案で喫茶店を開店する。そのとき直美さんの考えた「おなかにたまるライスメニュー・直美さんの手作りカレー」がカレーハウスCoCo壱番屋の原点である。

 1978年に創業した小さなカレー屋は、1998年(宗次氏50歳のとき)には500店舗になった。そして2002年、CoCo壱番屋の持ち株をハウス食品に売却したときの銀行口座には二十億円以上が振り込まれていた。日々の糧にも事欠く境遇にありながら、いつも養父の喜ぶようなことをしたいと思って育った宗次氏と、二人三脚で同社を発展させた直美さんは、「これは私たちのお金じゃなくて“一時預かり金”。社会にお返しするのが当然」という意見で一致し、使途を考えた末にクラシック音楽のために使うと決めた。高校2年生の時、アルバイトで買った中古テレビから流れてくる、故岩城宏之指揮のメンデルスゾーンのバイオリンコンチェルトに心を震わせた。以来、いつも心を癒してくれたのはクラシック音楽であった。「若い演奏家に発表の場を与え、もっと多くの人にクラシックに接してもらいたい」と、地域貢献も視野に、名古屋市の繁華街にクラシック専用の「宗次ホール」をオープンした。還暦を前に、経営からは完全に離れ、宗次ホールの運営に奔走する毎日である。

 恵まれない境遇で育ちながら、それをまっすぐに受け止め努力する強靭な精神力と、小さな幸せに感謝する心の積み重ねが、同氏の人生を貫いている。今日、心の荒廃が言われる中、仕事に真摯に邁進する過程においても、弱き者への共感と人の喜びを幸せとする心の有り様は、若者に勇気を与えるものとして「まちかどのフィランソロピスト」に相応しいものである。

特別賞 北澤豪さん

 北澤豪さんは、1968年、東京都町田市に生まれる。サッカーを始めたのは小学1年生。中学になると日本で唯一のプロ選手を擁していた読売サッカークラブ・ジュニアユースに所属。トップ選手を目指したが、読売に残ることができず、修徳高校サッカー部に所属した。しかしその先にあるプロしか眼中になく自分のテクニックを磨くことしか頭にない状態で、チームワークや一体感に価値を見出せずにいた。友だちもできない日々が続く中、上からの目線ではなく対等に話してくれる先輩の諭しによって徐々に変わっていく。高校卒業後、社会人の日本リーグを目指して本田技研工業サッカー部に入団、その後、1991年に読売サッカークラブ(現・東京ヴェルディ1969)に移籍し、1993年FIFAワールドカップ・アメリカ大会と1997年同フランス大会アジア最終予選の日本代表に選ばれる。

 2001年、ケガで戦列を離れ、サッカーと素直に向き合えていないと感じていた時期に、『カンボジアの子どもたちにサッカーボールを持って行ってくれないか』という話が舞い込んできた。何かをしてあげようと軽い気持ちで行ったカンボジアだったが、試合の中で自発的に励まし合い、純粋にサッカーを楽しんでいるカンボジアの子どもたちの姿を目にして、逆に、勝ち負けにこだわり視野が狭くなっていた自分に気付かされた。「試合になったら、まともにくるパスなどない。それをなんとか互いに補い合っていかなければ、決してゴールまでたどりつけない」という、サッカーが本来持っている助け合う精神を改めて教えられ、「ボランティアとは与えることではない。お互いなんだ」とボランティア観も変わった。

 その年、地雷の撤去活動など、世界各地の劣悪な環境に置かれた子ども達への支援を目的とするNGO「THE FOOT」を自ら設立し、カンボジアの学校を訪問してサッカー教室を開催したり、サッカーボールをプレゼントする活動を続けている。また、2006年にはチャリティフットサル大会で得た収益金や、引退試合の収益の一部でカンボジアに小学校を寄贈した。日本サッカー協会国際委員として“アジアの子どもたちにボールを届けるプロジェクト”に参加し、JICAオフィシャルサポーターとしても各国でサッカー教室の開催や、親善試合に出場している北澤さんは、「金持ち、貧乏、背の高い人、背の低い人、誰だって参加できるユニバーサルなスポーツであるサッカーには平和をもたらす力がある」と信じ、サッカーの普及と発展をめざして貧困に苦しむ国や地域へ足を運んでいる。プロスポーツ選手には、社会貢献する義務があるという信念で活動を続けてきた北澤さんに心からの拍手を贈りたい。

高知市立高知商業高等学校

 1994年、高知商業高校生徒会では、文化祭で募金活動をすることに決定。新聞で、元JICA職員がラオスで学校建設を行う『高知ラオス会』を設立し、そのための資金を集めていることを知り、学習会を開いてその趣旨に賛同、募金を『高知ラオス会』へ贈った。これを手始めに、その後、今年に至るまで商業高校ならでは知恵を絞った方法によりラオスの教育支援のための寄金を捻出し、その総額は15,753,276円に上っている。 卓越した活動の一つは「模擬」株式会社を設立、その株券を売却して得た資金でラオスの産品を仕入れて日本で販売、収益の一部をラオスの教育支援のために寄付している。また、寄付するだけに留まらず、寄付金によって建てられた学校を訪問し、生徒同士の交流を図る試みも行なわれている。

 その後、ラオス産品は「模擬」株式会社で販売するだけでなく、高知まちづくり委員会が進める「チャレンジショップ事業」に採用され、3ヶ月の限定期間ではあるものの、常設店舗での販売につながった。また、地元の百貨店や商店では、ラオスの民族舞踏の披露などを呼び物にして、ラオス産品の販売を促進するなど、地域経済を巻き込んだ活動に発展している。2004年からは、「高知とラオス、両方の発展」を合言葉にラオスの伝統的な織物と土佐備長炭を融合したオリジナル商品の試作、さらには、ラオス現地の綿製品工場と直接交渉し、生徒が企画したエコバッグを商品化するなどフェアトレードを前提とした商品の開発にも積極的に取り組んでいる。2007年8月には、そうして得た収益の寄付により6校目の学校が建設されている。 商業高校での学習で得た知識を生かして、ユニークな寄付資金の調達方法を考え出し、それを、地域の活性化、国際協力活動へとつなげていく様は、同校の文化として定着し、また、学びを現実社会で生かしてきた教育の成果は、高く評価できるものである。彼らの若くみずみずしい感性とエネルギーに溢れた活動は、社会に希望と勇気を与えるものとして 賞賛すべきものである。