巻頭インタビュー

Date of Issue:2018.8.1
<プロフィール>
生駒芳子さん
 
いこま・よしこ
兵庫県宝塚市生まれ。東京外国語大学フランス語学科卒業後、フリーランスのライターとしてパリ、ミラノでのコレクションを取材。1998年からVOGUE、ELLEでの副編集長を経て、2004年よりマリ・クレール日本版・編集長に。2008 年独立。以後、講演会出演、プロジェクト立ち上げ、雑誌や新聞への執筆にかかわる。
 
現在は、三重テラスクリエイティブ・ディレクター、東京都・江戸東京きらりプロジェクト委員、東京ブランドあり方検討会委員、石川県・伝統産業開発プロジェクトプロデューサー、日本エシカル推進協議会副会長、文化庁・日本遺産プロデューサー、経済産業省・日本ものづくり大賞審査委員、レクサス匠プロジェクトアドバイザー、東京2020ブランドアドバイザリーグループ委員、東京2020オリンピック・パラリンピックマスコット審査会副座長、一般社団法人 FUTURADITION WAO 代表理事
巻頭インタビュー No.387
伝統を未来に繋げる革新、新しい世界観を作って共感を得る
ファッション・ジャーナリスト/アート・プロデューサー
生駒 芳子
国際的なファッション雑誌の編集者を経て、ファッション・ジャーナリスト、プロデューサーとして自在に活躍する生駒芳子さんの視野は、ファッション、アートをはじめ、環境問題、社会課題と広い。現在、力を入れて取り組んでいるのは、日本の伝統工芸だ。「モノづくりの力は日本の宝」と語る生駒芳子さんを、表参道を少し入ったところ、日本庭園のある古い民家をリノベーションしたシェアオフィスに訪ねた。
天然に育った少女がファッション界で活躍する
― 生駒さんにお会いしたときに、金箔銀箔を使った、すてきなバッグを持っていらっしゃいましたね。魅せられました。
生駒 「HIRUME」という日本の伝統工芸をベースにしたジュエリーやファッションのオリジナルブランドの製品です。今、そのショールームを準備していますが、それまでは、わたしが歩くショールームです(笑)。
― その伝統工芸との出会いですが、ラグジュアリーな西欧ファッションの世界から、なぜ伝統工芸に向かわれたかと。どのようなお子さんだったのですか?
生駒 10代のころは外国にあこがれて、英語が話したくて、外人になりたかったほど(笑)。ひたすら英語のFEN※を聞き、ロックの追っかけ少女で、日記魔でもありました。1日3時間書いてましたから、いまでいうブロガーみたい。好きなことにひた走る女の子で、大学ではフランス語を専攻しながら、写真部と演劇部と社交ダンス部に入っていました。
※FEN(Far East Network)は、米国の海外基地在住の軍人などとその家族に向けた英語による24時間放送。現在は AFN(American Forces Network)。
― 自己表現がすごかったのですね!それで迷いなくファッション雑誌の編集の世界に?
生駒 はじまりはライターです。写真を撮るのも好きだったので、本当はフォトジャーナリストになりたかった。そこから始まり、インターナショナルなファッション雑誌の編集者として、パリ・コレクション、ミラノ・コレクションというファッションの中枢部を見て、トレンドチェックに目を向けていました。
― とんとん拍子に聞こえますが、やりたい想いを遂げるには、努力もモーレツだったでしょう。
生駒 売り込みの鬼でした。運と縁と感。人生は一度しかありません。人によって、いろんな生き方があっていいと思いますが、わたしの場合はマグロ的(笑)。休んだのは、子どもを産んだとき、1年間だけです。
パリやミラノで地球がおかしいと感じはじめた
― 華やかな世界にいらしたなかで、環境や社会に意識が向かったのは、なぜですか?
生駒 2000年を超えたころから、パリ・コレクション、ミラノ・コレクションに行くと、同じ時期に行っているのに、気候が変わり暑くなりました。それが、ますますひどくなるので、単なる気候変動だけでなく「地球が変わっている」という危機感を感じました。
またそのころ、オーガニックコットンやフェアトレードにも出会い、ファッションの見えない部分「トレーサビリティ」や「サステナビリティ」が、わたしの頭のなかに浮かんで、警鐘が鳴りはじめました。
― 当時、ファッションの世界で、それに気づく方はいたのですか?
生駒 少なかったと思います。気候が変わっていくなかで、今のままのファッションでいいのか。エシカルであること、環境にも人にも優しいファッションが、21世紀の道筋ではないかと考えました。
― そのころ、マリ・クレール日本版の編集長になられたのですね。社会派の記事を掲載した日本で初めてのファッション誌として、話題を呼びました。
生駒 2004年から雑誌を離れるまでの4年間、地球環境や社会問題からインスピレーションを得て、どんどん企画を考えました。
例えば、2005年には、環境宣言をしたルイ・ヴィトンからヒントを得て、エコとラグジュアリーがつながる「エコ・リュクス物語」を。2008年には、「エシカルファッションが未来の扉を開く」という記事を書きました。同時に、社会貢献活動のキャンペーンも展開。子どもと赤ちゃんの命を守ろうというホワイトキャンペーン、日本人の愛のエンゲル係数をあげようというラブキャンペーン、地球の環境を守りましょうというプラネットキャンペーン、バラの花を売って、途上国の子どもたちに学校を作りましょうというローズキャンペーン。
― つぎつぎとアイデアが。反対されることは、なかったのですか?
生駒 マリ・クレールはフランスの雑誌で、社長がフランス人。すべて応援してくれました。
伝統工芸との出会いと東日本大震災で生き方を問う
― 2008年に独立され、ファッション、アート、ライフスタイルを核として講演や執筆をなさっていて、伝統工芸とは、どのように出会ったのですか?
生駒 2010年に、ファッションコンクールの審査員長として、金沢に呼ばれました。そこで、インターナショナルでファッションのチャンネルを持っている人に、金沢の伝統工芸を見てほしいと言われました。それまでは伝統工芸にほとんど興味はなく、祖母のための世界というくらいの印象しかなかったのですが、行ってみたのです。
― それが大違いだったと。
生駒 加賀繍(かがぬい)、加賀友禅、象嵌(ぞうがん)の3つの工房を回ったときに、雷に打たれたようなショックを受けました。つくっているものが、エルメスやルイ・ヴィトンに匹敵する美しさ。こんなにきれいなものなのだと思った一方で、職人さんから聞こえるのは、「未来がない」「販路がない」「何をつくったらいいかわからない」という声ばかり。疲弊した金沢の伝統工芸に衝撃を受けて、東京へ帰ってきました。
― エルメスやルイ・ヴィトンくらい美しいと比較なさるとは、さすが!
生駒 東京で、「わたしに何ができるか」と考えていたら、偶然、ローマにあるフェンディの日本支社の社長さんから電話が。なんと、日本でフェンディのクラフツマンシップをアピールしたいので、日本の職人とコーディネートしてほしいと頼まれたのです。
― まるで、待っていたようです。
生駒 京都には、ほかのブランドがすでに入っていましたが、金沢は手付かずの状態でしたから、1週間後には金沢の同じ工房を訪ねて、フェンディと金沢をコーディネートすることになりました。
― まさに運命的な出会いです。
生駒 もうひとつ、大きなことが。半年後の東日本大震災です。それまで、わたしの目は海外に向いていましたが、それを機に、「日本人とはなんだろう」「日本のルーツとはなんだろう」「ファッションとは、モノづくりとはなんだろう」と、改めて自分のなかで、疑問が湧き起こりました。
足元に眠る宝を、未来につなげる活動ができないか。伝統工芸をうまくブランディングすれば、日本から世界に発信できるのはないかと思ったのです。
WAO からオリジナルブランドへ
― アイデアが湧くと、マグロ的生駒さんは早いですね(笑)。2011年夏に、日本の工芸品を集めて『Future Tradition WAO』という展覧会を開催。WAO とは、どういう意味でしょうか?
生駒 「和生(ワオ)」と書いて「和がもう1回生まれ直す」という意味と、「WAO!ワオ」と驚きをもって出会っていただく意味があります。
その時は全国から公募して、いわゆる民芸でなく、ファッショナブルな伝統工芸を集めました。すでにあるものからピンクの南部鉄器、漆のジュエリー、藍染めのストール、和紙のシャンデリアなど。同時に、ラグジュアリーブランドが日本の伝統工芸とコラボしたもので、バカラの「春海好み」という茶器や、ルイ・ヴィトンのモノグラムの漆の器※などを集めました。そうすることで、日本の伝統工芸もラグジュアリーなのだから、高く売りましょうと示したかったのです。
※漆の器:2007年の能登半島沖地震に際して制作、限定発売されたモノグラム柄の漆の器。収益金は輪島商工会議所に寄付。本誌 特別インタビュー の輪島キリモト・桐本泰一さんが制作を進めた。
― すでに、コラボしたものがあったのですか?
 
「HIRUME」金襴スカジャンより
生駒 ラグジュアリーブランドが、興味を持っていることは知っていましたから、ドアをたたくと出てきます。日本の伝統工芸は、彼らをうならせるほど、クオリティが高いということですね。
そのころ政府の官民有識者会議でクールジャパンの委員をしていたので、WAOをベースにクールジャパンに事業申請をして、パリとニューヨークに持っていきました。それがはじまりです。
― パリの装飾美術館での写真を見ると、ショッキングピンクと黒の展示場。インパクトがありますね。パリとニューヨークでは、大人気だったとか。その後は?
生駒 日本に持ち帰ってからは、セレクトショップとして出したり、定期的にポップアップショップで展示したり、オンラインでも販売しています。
― そして、先ほどお聞きした「HIRUME」のこと。オリジナルブランドを立ち上げられたのですが、HIRUME の意味は、なんですか?
 
「HIRUME」江戸小紋スカーフより
生駒 天照大神様の別名なのです。(おおのひるめのむちのかみ)から「ひるめ」のお名前をいただきました。世のなかを照らすほどの活躍をする女性たちが、しっかりとつくられたものをまとって活躍してほしいとの意味を含めました。西陣織や箔のバッグ、漆のブレスレット、ストール、コートやドレスなど。主に着物の素材で、普段に使えるジュエリーとファッションとして表現しました。ことしから本格的に事業化しています。
― 目指していらっしゃることは?
生駒 ビジネスを、ただ大きくすること以上に、日本の伝統産業の支援、ブランディング、付加価値をあげていくことです。海外の注目を集められるように、展開したいと思っています。
若い世代の参加と提案型が、伝統のなかの革新を実現する
― 石川県や東京都の伝統産業へのアドバイスもなさっていますが、これからについては、どのように?
生駒 「HIRUME」は、わたしのライフワークだと思っています。自分の人生をかけると同時に、この事業は、続かないと意味がありませんから、若い世代にも受け継いでもらいたいと思っています。
― 職人の後継者問題は、どうでしょうか?
生駒 最後のひとりだという職人にたくさん会いますが、一方で、この人がいなくなったら終わりというギリギリのところで、若い人が入ったというケースも出てきています。
― 若い人が、職人を目指すようになってきた?
生駒 先日訪ねた江戸切子の工場には、北海道から18歳の男性が入りました。知り合いの江戸小紋の工場にも、18歳の若者が入りました。10代・20代の人にとっては、むしろ新鮮な体験なのでしょう。30代や40代の後継者や、新たに飛び込む人がメディアで紹介されることで、彼らにあこがれる若者も出てきています。伝統工芸の世界も、変わってきたように思います。
― そうなんですか。やはり、ロールモデルって、必要ですね。
生駒 ファッションの流れからいうと、2000年からファストブランドが出てきて、今や時代は大量消費大量生産の極みに来ています。わたしたちのしていることは、いわゆる「より戻し」だと思うのです。例えば19世紀に、ウィリアム・モリスが主導したイギリスの「アーツ・アンド・クラフツ運動」。産業革命で大量生産されたものが市場に溢れて、モノづくりが荒れたときに、今一度、美術工芸に戻ろうと主張した運動がありまた。
― イケイケでやってきたときを振り返り、立ち止まってみると。
生駒 これからのファッションがどういう方向に向かうのか、考えなくてはいけない時期に来ていると思います。エシカル、フェアトレード、オーガニックコットンやリメイクという道もあるけれど、わたしは、地産地消の「手作り」「伝統のものづくり」「エシカルなものづくりの」の道を、追求しようと思っています。
― 地産地消とは、どのような?
生駒 日本のファッションの自給率は、3パーセントくらい。ほとんどが海外生産で、工場も弱体化しつつあります。いろいろなものが海外に取って代わられるなかで、わたしは、日本のモノづくりの力は、世界でも稀有なクオリティを保ち、日本の宝だと思っています。
伝統工芸の世界では、フランス、イタリア、日本がトップ3。なぜかというと、洗練度とデザイン性が優れているからです。デザインと伝統的技術が合わさると最強になります。その意味で、日本は最高峰のレベルに達していると思います。
― それなのに、発信力とビジネスモデル化が弱い。
生駒 ブランディングが弱いのです。日本は、世界一の老舗大国。大概の欧米のラグジュアリーブランドは、年数的には日本の老舗にひれ伏すほど。ブランディングが弱いのは、長い歴史に甘んじてきたからだと思います。日本国内では信頼を得られ、お墨付き。でも、グローバルに出ていくときには、全く弱い。座組が変わったときに、グローバルに通用しなかったということです。
― そこに、生駒さんの存在が必要とされる。
生駒 わたしだけでなく、グローバルな視野を持って、伝統産業を引っ張っていく人が、何人も立ち上がらなければ追いつかないと思います。
― 伝統工芸の人たちに、それが伝わっているでしょうか?
生駒 今は、伝わっていると思います。ほとんどの地方行政も、伝統産業を活性化しようと打ち出しています。また、モノづくりをしている人たちも、10年20年前には守る意識が強かったけれど、ルールや規制概念を破って、次に行くことを掲げるようになっています。
わたしのような考え方を持つものが呼ばれて、職人さんの前で講演するケースが多くなりました。外からの目、外圧がありがたいというご意見があります。
― 最後に、伝統を継承するためには、どんな革新が必要でしょうか?
生駒 他の伝統世界も同じだと思いますが、外圧でないと古い世界は変えられません。伝統工芸も、まさに伝統を守る世界。でも、古くからある構造を壊して何かをしようとすると、エネルギーも時間もかけたのに、実現できなかった、変わらなかったという状況をよく聞きます。
ならばと考えたのは、伝統世界はそのままにしておいて、その横に新しい世界を作ってみる。古い家は置いておいて、「こんなのはどうですか」と新しい家を、その横に建ててみる。居心地が良ければ、みんなが自然と新しい世界に興味を持ち始めます。
― 批判でなく提案型だと。
生駒 それが一番効果的かなと思っています。古い世界を変えるには、大変なエネルギーが要ります。今ではインターネットもあり、起業を応援する社会的背景もあります。スタートアップするのには良い時期。
「HIRUME」も2年間、WAOを続けた末に、オリジナルで開発してみたい気持ちになり、「こういうのも、あっていいのでは」と提案型で始めました。
― 伝統工芸は、モノづくりのこころと技を守りながら、同時に、時代の変化にあった喜ばれるものを生み出していかなければ、結局、歴史の中に消えてしまいます。「こんなのも、ありますよ」と提案すること。
わたしたち消費者も、日本人として伝統を継承するという矜持と誇りを持ちたいですね。日常の暮らしやファッションにも活かしつつ、かっこいい大人の姿を次世代に示していかなければ。
きょうはありがとうございました。
【インタビュー】
公益社団法人日本フィランソロピー協会
理事長 高橋陽子
 
(2018年7月2日 東京・表参道にて)
機関誌『フィランソロピー』No.387/2018年8月号 巻頭インタビュー おわり