特別寄稿

Date of Issue:2018.12.1
<プロフィール>
村林 裕さん
 
むらばやし・ゆたか
1953年生まれ。慶應義塾大学卒業後の1976 年東京ガス入社。1997年にJリーグクラブ設立準備事務局長に就任し、FC東京設立に尽力。2008年から2011年まで同クラブの代表取締役社長を務める。現在、慶應義塾大学教授、一般社団法人アリーナスポーツ協議会 代表理事など。
特別寄稿/No.389
スポーツに求められる人づくり、街づくり
慶應義塾大学 政策・メディア研究科 教授
村林 裕
誰もがスポーツを「する」ことができて、誰もがスポーツを「観る」ことができる社会にしたい。これらの実現のためには、誰もがスポーツを「支える」ことができる機会、場、仕組みをつくらねばならない。こうした社会ができることで、人々は健康になり、人々は繋がり、元気な街になる。これがスポーツの価値であり、スポーツの社会的貢献と考える。
スポーツを好きになり観てもらうために
スポーツ界の直近の話題の一つが、大学スポーツの見直しである。国としてこのテーマに取り組んだのは初めてといわれている(平成28年度(2016年度)文部科学省「大学スポーツの振興に関する検討会議」より)。今春(2018年)のアメフト事件がきっかけではありません。
大学に教員として着任して最初の授業(スポーツビジネス)で、「スポーツが好きか?」と尋ねた。ほぼ全ての履修生が「好き」と回答すると予想したが、なんと半数が「好きではない」と答え、その理由は「スポーツにいい思い出がない」であった。
体育会の学生は、その多くが子どものころから、自らがプレーをすることに集中し、ついてこられない仲間をふり落とし、周囲との距離をおいている、少なくとも周囲からそう見られているという現実をつきつけられた。私を含むスポーツ界の人の、「世の中の人は、みんなスポーツを素晴らしいと思っている」と考えることは幻想であり、「スポーツを好きな人を増やす、観に来てくれる人を増やす気持ちが不足している」ことに気づいた瞬間であった。
体育会の学生が「こうして競技を続けられるのは親のおかげ、子どものころから送り迎え、弁当、洗濯、遠方まで試合を観に来てくれました」と感謝をしている。正しいし、その気持ちは大切だ。しかし、大学生になって、観てくれている人は保護者、親戚の方だけという現実に満足していいのだろうか? 子どものころから、近所の大人から観られていたわけでも、応援されていたわけでもないために、自らがその立ち位置を狭くしていると感じる。
「友だちを大切にしよう」、この言葉を否定する人はいないはずだ。では、大学の体育会の学生が、体育会以外の大学生に対し「友だちづくりをし、友だちを大切にする」ことを実行しているだろうか? 指導者はこのことに配慮しているだろうか? OBはOBのことよりも、友だちを大切にしなさいと指導しているだろうか? 試合終了後に、真っ先にあいさつをする相手を親としていないだろうか? 次にOBの顔を見ていないだろうか?友だちのことを忘れていないだろうか? そもそも何人の友だちが観に来てくれているだろうか?
一方、否定的な話ばかりではない。私は今、大学のバレーボール部の部長をしている。バレーボール部出身ではない卒業生の方で、頻繁に応援に来てくださる方がいる。部のOBのお母さまで、ご子息が卒業後も、引き続き応援に来てくださる方がいる。
「スポーツが好きではない」と答えた学生が、「本心はスポーツが好きだ」ともいう。ここにヒントがある。「観に来てほしい」という気持ちの表し方を考えれば、「本当は観に行きたい」という友だちを見いだせるはずだ。大人が、自分の子ども、自分の子どものチームの子どものみでなく、「街の子ども」を観る習慣が根づけば、子どもたちは観てもらう喜びを知り、大学入学後も、友だちに観てもらうことで成長し、大学スポーツの発展にも繋がるはずだ。
障がい者とともにスポーツを楽しむ
2020年のパラリンピックをきっかけに、障がい者スポーツの環境は大きく変わろうとしている。障がい者スポーツには、周囲のサポートが必要である。しかし、それは「かわいそう」の上ではない。障がい者と一緒にスポーツをすることによって、同じスポーツを楽しむ、同じ競技を楽しむ仲間とすることが基本である。
障がいのある方々が陸上競技のトレーニングをしているクラブの代表の方に、「障がいは個性だ」と教えていただいた。コンマ1秒速く走りたいという気持ちに、健常者も障がい者もない。現状は、子ども時代から健常者と障がい者は、別々の場でスポーツをすることになっている。健常者の多くが、障がい者と一緒にスポーツをした経験を持っていない。私のゼミの学生が、ブラインドサッカー、車いすバスケットボールを体験すると、その発見、興味から、その後の言動、姿勢に大きな変 化がみられる。
障がいのある私のゼミの学生が、地域のスポーツクラブの経営の勉強をしたいとドイツに留学をした。帰国後、地域のスポーツクラブで研究をさせてほしいとお願いをし、快く引き受けていただいた。ある時、学生から地域スポーツクラブ経営の研修会に出席するというので、費用はどうするのかと聞いたところ、クラブが出してくださるという。感謝の言葉もない。これが地域スポーツクラブの真髄なのだと思う。つまり、スポーツクラブの最も大きな役割は人材の育成にある。
視覚障がいの方の伴走という役割がある。日曜日ごとに走りたいランナーとそのレベルにあった伴走者をマッチングさせる仕組みを作り、運営されている方がいる。伴走者は、当然ランナーよりも走力があるスーパーアスリートだ。ただ走力があるからといってできるものではないが、トレーニングをすることで、多くのアスリートが可能であるはずだ。野球部、サッカー部あるいはテニス部には陸上競技部に負けない走力をもった部員がいるはずだ。彼らはそうした役割を知らないだけで、子どものころから一緒にスポーツをする環境で育てば、自然と自分ができる役割を果たすはずだ。それは、「かわいそう」という考え方の先ではない。
スポーツをする環境をよくするために
中学校では、スポーツが得意不得意を問わず、運動部部活にはいることが当然と考えられていた。
近年は、無理に入部する必要がない、個人の意思を尊重するという傾向もあり、スポーツを経験せずに中学生生活を過ごす人が増えている。合わせて教員が多忙、部活顧問の減少、ならびに部活顧問のあり方の変化にともない、部活の衰退は明らかだ。部活の衰退イコール中学生のスポーツ環境の劣化と認めてはいけない。学校スポーツのみに頼っていた社会の制度の見直しが必要だ。解決策は平凡な答えだが「地域スポーツクラブ」だ。既に全国で活発な活動がされているが、数も質もまだまだ改善が望まれる。
スポーツの環境をよくするための基本は、(1)良質な指導者の配置、(2)施設の充実である。スポーツクラブにとっては、さらに、いえその前に、(0)有能なクラブ経営者が必要である。日本のスポーツの施設は、各小学校、中学校にグランド、体育館ならびにプールがあり、ドイツと比べて遜色ない。あくまでも学校教育の施設であって、地域の市民のためではなく、地域開放が行われるが、その運営者が存在するわけではない。指導者は市民のための指導者ではなく、学校の生徒のみを対象としているので、市民には指導者がいないことになる。
これらの課題は、クラブ経営者の存在で解決が可能だ。スポーツクラブは法人である。法人は健全に継続されるべきで、それぞれのスポーツクラブにおいて、個性的な経営が行われることが、結果、街づくりに繋がる。
健常者は、いつ障がい者とともにスポーツをする場を体験するのだろうか?
市民がスポーツをする際に、指導者がいるのだろうか?
体験の場は作らねばならない。指導者は探すものではない。育てなければならない。そのためには地域のスポーツクラブの存在、そのあり方を問うことが大切である。
スポーツの力は社会のお役にたつ、と信じている。そのためには、スポーツを好きな人が増えないといけない。スポーツが上手な人をうらやんだり、不得意な人を見下したり、そうではないですね。一流アスリートの友人を誇りにする気持ち、友人に支えられて、自分はスポーツをすることができるという気持ちをみんなが持てる社会になりたい。
中学校の部活に、高校の部活に、大学の体育会に、企業スポーツに、プロチームクラブに、障がいのある方が、日ごろから一緒に活動をしていて、高齢者もスポーツを楽しんでいて、かつトップアスリートが目の前にいて、応援できる。
「スポーツクラブとは?」を一つのパターンに決めつけず、日本がもっている素晴らしい財産である、部活・体育会・企業スポーツがそれぞれの特徴、歴史をふまえたスポーツクラブを運営・経営することを強く薦める。地域のスポーツクラブが 社会的な価値を持ち、社会においてなくてはならぬ存在になってほしい。
最後に大切なことを付け加える。スポーツの良さは「勝利をめざし努力をすること」である。そのうえで応援する楽しさ、勝利の感動が生まれる。日ごろは障がい者も高齢者もともにスポーツを楽しむ環境で、素敵な指導者のもとで市民がスポーツを楽しむ、そうしたクラブからトップアスリート、オリンピアンが生まれ、市民の誇りとして応援ができたならば、それは楽しいことではありませんか?
機関誌『フィランソロピー』No.389/2018年12月号 特別寄稿 おわり