巻頭インタビュー

Date of Issue:2019.2.1
<プロフィール>
竹川隆司さん
 
たけかわ・たかし
2000年 国際基督教大学卒業、野村證券入社。2006年 ハーバード・ビジネス・スクールでMBA 取得、野村ロンドンに赴任。2008年 野村證券を退職し、ベンチャー企業の経営をはじめる。2011年 朝日ネットに入社、アメリカでAsahi Net International. Inc. を設立。東北でのマラソン大会開催に向け活動開始。2014年 第1回「東北風土マラソン&フェスティバル」開催。一般社団法人インパクトジャパンのエグゼクティブ・ディレクター。2016年 zero to one 設立。
巻頭インタビュー/No.390
「ふるさとは“日本"」マラソンイベントで東北と世界を笑顔でつなぐ
東北風土マラソン&フェスティバル 発起人会代表
副実行委員長
竹川 隆司
2019年3月23日・24日と、宮城県登米市で「東北風土マラソン&フェスティバル」が開かれる。2014年から開催されている、東北のグルメを楽しみながら走る「お祭りマラソン」だ。年々参加者を増やし、昨年は、ランナー6,800人(うち外国人200人超)、2日間の参加者は53,000人で、人口81,000人の登米市が大いににぎわった。人が訪れ楽しむことで、東北の人に自信と笑顔を取り戻したいと、東北の魅力を世界に向けて発信する竹川隆司さんに聞いた。
故郷が横須賀から「日本」になった瞬間
― ハーバード大学でMBAを取得した元エリート証券マンで、その後、アメリカでベンチャー企業を設立した竹川さんは、いま3枚の名刺をお持ちです。東北を拠点にした起業家育成・支援プロジェクトの代表理事、IT系教育ベンチャー企業の代表。そして「東北風土マラソン&フェスティバル」の推進者。
グローバルにチャレンジを続ける竹川さんは、どちらのご出身なのですか?
竹川隆司氏(以下敬称略) 米軍基地のある横須賀です。子どものころの思い出には、ベースに入ればカジノがあったりして、まったく違う国。地方都市なのにグローバル。そういう土地柄が、多少なりとも自分の人格形成に影響し、外のものを受け入れ、アンテナを高く持とうという気持ちが、マインドセットされたかもしれません。
― 高校も横須賀ですか?
竹川 神奈川県立横須賀高校です。旧制中学から続く伝統的な学校で、責任感には厳しかったですね。3年間、クラスも担任も同じ。その担任教師から常に言われたのが、自分はどうあるべきか、「お前はそれでいいのか?」でした。
― 自問し、内省する訓練をされたのですね。そのころは、将来をどう考えていたのですか?
竹川 漠然とですが、途上国の人を助けるべきだと思っていて、ODAについて興味を持ったり、外交官か国際機関、JICAに行きたいと思っていました。
― 常に、世界と人助けに目を向けていたのですね。それで、東日本大震災のときには、どこにいらしたのですか?
竹川 はじめのベンチャーから、次のチャレンジに移るタイミングでした。準備で、日本とアメリカを行き来していて、日本に居たときに震災が発生。都内に住んでいて、歩いて帰宅したり、エレベータが止まったりを経験。まわりには、社会貢献やボランティアをする人が多かったので、東北の映像を見て、すぐに被災地に向かう人もいました。
― ご自身も、早く被災地に行きたいと?
竹川 私は、4月に、アメリカでの新しい会社設立を控えていて、戻らなくてはならず、その3日後に飛行機に乗ったんです。離陸の瞬間に、大切なものを置いていくのではないかと感じたことが、強く印象に残っています。
― 日本中が、ショックを受けていたときです。
竹川 後ろめたい気持ちのまま10時間後、アメリカに着くと、CNNなどの放送局で衝撃的な映像が流れていました。乗ったタクシーの運転手や、ホテルのレセプションの人までもが、日本人と見れば「大丈夫なのか?」と聞いてくる。
― アメリカの底力ですよね。
そのときです。私の故郷が、横須賀ではなくて日本というレベルになりました。自分の守るべきものは日本だと、その時、実感として湧いてきたんです。
寄付から、楽しいマラソン大会開催へ
― 被災地の被害の深刻さが日に日に増す中で、竹川さんは、まずアメリカで行動を起こされたとか。
竹川 ハーバード・ビジネス・スクールのコミュニティで、メールやフェイスブックから「何かあればやりたい」との声があがり、この気持ちをつなぎたいと思いました。同期の仲間でサイトをつくり、寄付を呼びかけて、おそらく2~3千万円は集まったようです。
― 1か月くらいですよね。すごい! それは、どのように使われたのですか?
竹川 復興支援を行っている3団体を仲間と選び、寄付者それぞれのご判断でご寄付いただきました。寄付先での具体的な使われ方を、報告しないといけないと思っていましたが、当時は、立ち上げなどで時間的制約もありなかなか動けず、責任を感じました。
― 寄付は、お金がどう活かされたかを報告することが、大切ですからね。
竹川 私自身もベンチャーをやっているので、お金を預かることの大切さ、1円稼ぐことの大変さを実感しています。そこで、自分で責任を持ってできることをやろうと、次に考えたのが「メドックマラソン※」のような楽しいマラソン大 会でした。
※メドックマラソン:フランスのボルドー・メドック地方で、毎年ぶどうの収穫直前の9月に開催されるフルマラソン大会。給水ポイントで振るまわれるワインを飲みながらぶどう畑の中を走り、シャトー(ワイン醸造所)を巡り、チーズや生ガキ、ステーキを食べながらゴールを目指す。
― そもそも、なぜマラソンを思いつかれたのですか?
竹川 アメリカに留学していたときに、体重対策で走り始めて、ボストンマラソンでフルマラソンを走ったのがはじまりです。その後、野村證券のロンドンに配属され、ロンドンでも走りました。
― ご自身が市民ランナーなのですか!メドックマラソンのことはご存知だったのですね。
竹川 ロンドンにいたときに一度申し込んで、行けませんでした。メドックでは、ワインを飲んで、ワイン畑を走ります。ワインと日本酒は度数が同じだし、東北には田舎の原風景があるので、つながるのではないかと思いつきました。どこかにお金を払うだけだと、それだけで終わってしまいます。本質的にやりたいのは、その地域に笑顔を取り戻すことだと考えました。
― 目的は笑顔をとりもどすこと!
竹川 ハーバード大学で一番衝撃だったのは、「リーダーシップは、あなたの隣の人を笑顔にすることだ」と言われたことでした。それだなと思ったんです。復旧支援は、皆さんがしてくれています。心の復興のためには、笑顔を取り戻すこと。そのために、どうしたらいいか。
震災から1年が過ぎるころでした。一部の人は東北にボランティアに行き、多くの人は行かなかったけれど何かしたいと思っている。その気持ちを、東北の魅力とつなげることはできないか。外の人とつながり、東北を楽しんでもらうことで、東北の人に自信と笑顔を取り戻すことができないかと考えました。そのために、人が呼べる吸引力は何か?
― 食や日本酒のフェスティバルなどは、想像しやすいですね。
竹川 当時もやっていましたが、それだと地域の人が集まり、よほど有名なお祭りでもないと、全国から人を呼ぶのは難しい。でもフルマラソンだと、全国から集まるんです。自分自身がランナーだったので、地方でも行くな、と感じました。
東北の人たちの笑顔を増やすために、外の人と東北の人たちをつなぐ。それを、メドックマラソンの楽しい形と、地方でも行くというランナーの組み合わせで実現しようと考えました。
― そのときは、アメリカでベンチャーの仕事をなさっていて、行ったり来たりの二重生活で、企画を進めたのですか?
竹川 そうです。2012年9月にメドックマラソンに参加し、東北で開催するお墨付きをもらいました。一番大きなスポンサーなども決まり、最初の大会コンセプトのデザインも作りました。
― 決めていく力、さすがです。
竹川 ビジネスで培われた力です。関心をもってもらい、共感してもらい、人やお金、名前を出してもらうというアクションにつなげることは、一定のスキルが必要です。野村證券で、営業をやってよかったなと思うのは、そこですね。証券会社は株や債券で、会社の未来を売っています。見えないビジョン、次にある世界を伝えるのは、ある意味似ていると感じます。私たちが、比較的うまくいっていると言われるのは、そこかなと思います。
― あとは地元のOKと警察の許可というところ。
竹川 そこが実は大変でした(笑)。
アメリカから帰国し、マラソンの立ち上げに奔走
― 地元とのやりとりでは、なにが難しかったのでしょうか?
竹川 一番は、ビジネスでやることと、地域で実現させるための重要な点や、押さえておくべきフロー、物事の進め方が全く違うことでした。地元の方にお任せしていたところもあったのですが、まだ話が進んでいないのではないかと気が付いたのが、2013年の11月でした。
― 外側の準備は順調でも、地元では進んでいなかった!
竹川 皆さんを集めて、実行委員会をやろうとしたところ、地元から聞こえたのは「実行は決まっていない」という声。さすがに焦りました。
― そう、来ましたか!
竹川 特に言われたのは、地元の人たちの気持ちが温まっていないことでした。アメリカから何度か日本に帰りながら、リモートで準備していたけれど、自分自身、十分やってこなかったと素直に反省しました。仲間たちも、地元のいろいろなものと戦っているなかで、いま、自分にしかできないことは何かと考えました。アメリカの仕事を続けるか、辞めて帰国し、マラソンを立ち上げるか。
― 自分に問い続ける、横須賀高校の薫陶です(笑)。そこで帰国を決断しました!
竹川 はい、2013年の12月から翌年1月は、登米市に入り浸りました。いろんな方一人ひとりと会い、信頼関係を築いていけば、理解していただくことができました。最後は、警察の道路使用許可です。
― 面白いのは初年度のチラシ。端っこに「飲酒運転禁止」のマークがありますね(笑)。
竹川 走るのは、湖のまわりの管理道路のようなところですが、メドックのように日本酒を飲みながら走ることは、完全にだめでした。日本酒やアルコールにつながるイメージもいけないと、最初のチラシは、警察のご指導をいただいたものになっています(笑)。
― それ、いつごろですか? マラソンの予定は、2014年4月27日ですよね。
竹川 マラソン大会は、半年から1年前にエントリーを開始します。遠方の大会では、旅行の予定も必要です。2月に入っても決まらず、実施の2か月前に、市長の記者会見が決めてありましたが、その前日の夕方5時半に、警察から電話で「わかりました」と言っていただきました。
― ギリギリセーフですね。ところで、登米市を選んだのは?
竹川 メドックの東北版をやるための重要な条件は、フルマラソンができること。東北のいいものを集められ、沿岸被災地の人たちも集まれる場所で、かつコースがとれる場所と考えたときに、ぴったりの場所、登米市の「長沼フートピア公園」を紹介されました。石巻市、気仙沼市、南三陸町から1時間くらいで、復興支援の拠点だった場所です。
― まさに象徴的ですね。
第1回目の開催と、これからに向けて
― ようやく、第1回「東北風土マラソン&フェスティバル」が開催されました。
竹川 人が集まるのかと心配でしたが、1,300人集まりました。
― 発表から2か月、短期間に頑張りましたね。
竹川 やるぞとは、いろいろなところに言っていたし、スポンサーさんにも待っていただいていました。たぶん1,300人の半分は、一緒にやっていた復興支援に想いのある20人くらいの仲間の知り合いとか、その知り合いじゃないかと思います。少なくとも、12人は竹川家でした(笑)。
― 一家総出(笑)。1,300人も集まり、皆さん嬉しかったでしょう
竹川 何よりもよかったのは、地元の方に「ああ、こういうことなんだ」と、やっと理解していただけたことです。この1回目がなかったら、そのあとは難しかったと思います。
― 次回は6回目です。年々、参加人数が伸びていますね。
竹川 次は、ランナーが7,000人を超えるくらいかなと思っています。会場のキャパシティもあり、どれくらいの人数が必要かと考えると、これからは、定着させるほうが大事だと思っています。最初は立ち上げと成長の5年。あとの5年は、定着と地元化の5年という位置付けです。
― 地元化は、進んでいますか?
竹川 正直、現在進行中です。自分も含めた外の人が来て、地元の方々と一緒につくりあげていくという感じですが、それはそれでいいと思っています。実行委員会や事務局として動く人もいれば、ボランティアリーダーで運営側に近い立場で動く人も、数日のボランティアもいれば、ランナーという形の参加や、来て楽しむだけという人もいます。いろいろなレイヤーがあっていいと思います。
― 交流人口がいろいろですね。
竹川 一方で、地元の方々には、地元のイベントとして、自分事にしていっていただきたいと思っています。継続性からも、「東北と世界をつなげる」というミッションから考えても、地元で愛される大会にすることが大事だと思います。
― そのために何が必要ですか?
竹川 以前は、引き継いでくれるひとりの強力なリーダーが出てほしいと思っていたけれど、地方の場合は、組織として継続していく形が重要ではないかと思います。例えばこれまで、実行委員会は、地元の人と外の人が半々くらいでした。今年は7対3くらいにして、地元の人数を一気に増やしました。東京から行く人が多ければ、交通費や宿泊費がかさみます。地元が増えれば、大会としても、地元にお金を落とすことができます。それが第一歩だと思います。
― マラソンのこれからは?
竹川 2020年大会か、第10回記念大会か、それ以降かわかりませんが、南三陸町と登米市をつなぐマラソンを実現したいと思っています。南三陸町の新しくできた庁舎から、長沼フートピア公園までは、40キロくらいです。実は、最初に描いていたコースが、そこでした。
― このマラソンにかける夢とは、どんなものですか?
竹川 メドックマラソンは、いまでこそ有名ですが、35年ほど前、シャトーの2代目3代目たちが、メドックワインがあまり売れなくて始めた大会でした。それを仕組みにして、地域には大きな経済効果が生まれましたが、一番重要なのは、メドックワインをグローバルブランドにしたことです。それには、外から人が集まり広まったこともあるけれど、地域の人が自信をもって外に発信していったという両面があります。
私たちは、30年かけても、東北の酒や米、牛肉などのよいものを、ひとつでもふたつでもグローバルブランドにするような大会にしていけたらと考えています。
― 外国からの参加者も増えていますから、期待できますね。最後に、ご自身の夢は?
竹川 そうですね、世界平和かな(笑)。自分のまわりの人から、笑顔が広がっていくような世界をつくっていくことが、一番大切だと思っています。
― 震災で「日本が故郷になった」という竹川さんの言葉が、胸に残ります。みんなを笑顔にして、世界を平和に。マラソンイベントに、そのヒントがありそうです。私たちも笑顔をいただきました。
きょうはありがとうございました。
【インタビュー】
公益社団法人日本フィランソロピー協会
理事長 高橋陽子
 
(2019年1月8日 新丸の内ビルディングにて)
機関誌『フィランソロピー』No.390/2019年2月号 巻頭インタビュー おわり