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No.390
 
2019年2月号
特集/
 
震災復興から地域再生への挑戦を追う

巻頭インタビュー (記事全文をご覧いただけます。)
「ふるさとは“日本”」マラソンイベントで
東北と世界を笑顔でつなぐ
 竹川 隆司 氏

 東北風土マラソン&フェスティバル 発起人会代表、副実行委員長

特別鼎談 (記事全文をご覧いただけます。)
若者たちが挑戦する復興支援
それぞれの想いを未来につなげて
 
 菅野 智香 さん

 一般社団法人あすびと福島 学生パートナー代表
 
 北村 勇樹 さん
 早稲田大学気仙沼チーム
 
 小松野 麻実 さん
 一般社団法人 三陸ひとつなぎ自然学校 学生インターン
 特定非営利活動法人 東北岩手応援チャンネル 学生サポーター


元気な社会の架け橋(社名50音順)
 アミタ株式会社
 
 株式会社ジェーシービー
 
 三井不動産株式会社


リレーコラム 私のフィランソロピー
 野澤 和弘
 毎日新聞論説委員

連載コラム(第64回)富裕層「あ・い・う・え・お」の法則
 増渕 達也
 株式会社ルート・アンド・パートナーズ 代表取締役社長

連載コラム(第2回)寄付探訪
 出口 正之
 国立民族学博物館 教授

見たこと聞いたこと
 多摩少年院での「プログラミング講座」を実施
 Betweens Passport Initiative_Sharing Session
 あらゆる人たちに、社会参加、仲間たちと働く自由を

Others
 PHILANTHROPY BOOK REVIEWS
 JPA PHILANTHROPY TOPICS
 次号案内 編集後記

 
 
<プロフィール>
竹川隆司さん
 
たけかわ・たかし
2000年 国際基督教大学卒業、野村證券入社。2006年 ハーバード・ビジネス・スクールでMBA 取得、野村ロンドンに赴任。2008年 野村證券を退職し、ベンチャー企業の経営をはじめる。2011年 朝日ネットに入社、アメリカでAsahi Net International. Inc. を設立。東北でのマラソン大会開催に向け活動開始。2014年 第1回「東北風土マラソン&フェスティバル」開催。一般社団法人インパクトジャパンのエグゼクティブ・ディレクター。2016年 zero to one 設立。
巻頭インタビュー/No.390
「ふるさとは“日本"」マラソンイベントで東北と世界を笑顔でつなぐ
東北風土マラソン&フェスティバル 発起人会代表
副実行委員長
竹川 隆司
2019年3月23日・24日と、宮城県登米市で「東北風土マラソン&フェスティバル」が開かれる。2014年から開催されている、東北のグルメを楽しみながら走る「お祭りマラソン」だ。年々参加者を増やし、昨年は、ランナー6,800人(うち外国人200人超)、2日間の参加者は53,000人で、人口81,000人の登米市が大いににぎわった。人が訪れ楽しむことで、東北の人に自信と笑顔を取り戻したいと、東北の魅力を世界に向けて発信する竹川隆司さんに聞いた。
故郷が横須賀から「日本」になった瞬間
― ハーバード大学でMBAを取得した元エリート証券マンで、その後、アメリカでベンチャー企業を設立した竹川さんは、いま3枚の名刺をお持ちです。東北を拠点にした起業家育成・支援プロジェクトの代表理事、IT系教育ベンチャー企業の代表。そして「東北風土マラソン&フェスティバル」の推進者。
グローバルにチャレンジを続ける竹川さんは、どちらのご出身なのですか?
竹川隆司氏(以下敬称略) 米軍基地のある横須賀です。子どものころの思い出には、ベースに入ればカジノがあったりして、まったく違う国。地方都市なのにグローバル。そういう土地柄が、多少なりとも自分の人格形成に影響し、外のものを受け入れ、アンテナを高く持とうという気持ちが、マインドセットされたかもしれません。
― 高校も横須賀ですか?
竹川 神奈川県立横須賀高校です。旧制中学から続く伝統的な学校で、責任感には厳しかったですね。3年間、クラスも担任も同じ。その担任教師から常に言われたのが、自分はどうあるべきか、「お前はそれでいいのか?」でした。
― 自問し、内省する訓練をされたのですね。そのころは、将来をどう考えていたのですか?
竹川 漠然とですが、途上国の人を助けるべきだと思っていて、ODAについて興味を持ったり、外交官か国際機関、JICAに行きたいと思っていました。
― 常に、世界と人助けに目を向けていたのですね。それで、東日本大震災のときには、どこにいらしたのですか?
竹川 はじめのベンチャーから、次のチャレンジに移るタイミングでした。準備で、日本とアメリカを行き来していて、日本に居たときに震災が発生。都内に住んでいて、歩いて帰宅したり、エレベータが止まったりを経験。まわりには、社会貢献やボランティアをする人が多かったので、東北の映像を見て、すぐに被災地に向かう人もいました。
― ご自身も、早く被災地に行きたいと?
竹川 私は、4月に、アメリカでの新しい会社設立を控えていて、戻らなくてはならず、その3日後に飛行機に乗ったんです。離陸の瞬間に、大切なものを置いていくのではないかと感じたことが、強く印象に残っています。
― 日本中が、ショックを受けていたときです。
竹川 後ろめたい気持ちのまま10時間後、アメリカに着くと、CNNなどの放送局で衝撃的な映像が流れていました。乗ったタクシーの運転手や、ホテルのレセプションの人までもが、日本人と見れば「大丈夫なのか?」と聞いてくる。
― アメリカの底力ですよね。
そのときです。私の故郷が、横須賀ではなくて日本というレベルになりました。自分の守るべきものは日本だと、その時、実感として湧いてきたんです。
寄付から、楽しいマラソン大会開催へ
― 被災地の被害の深刻さが日に日に増す中で、竹川さんは、まずアメリカで行動を起こされたとか。
竹川 ハーバード・ビジネス・スクールのコミュニティで、メールやフェイスブックから「何かあればやりたい」との声があがり、この気持ちをつなぎたいと思いました。同期の仲間でサイトをつくり、寄付を呼びかけて、おそらく2~3千万円は集まったようです。
― 1か月くらいですよね。すごい! それは、どのように使われたのですか?
竹川 復興支援を行っている3団体を仲間と選び、寄付者それぞれのご判断でご寄付いただきました。寄付先での具体的な使われ方を、報告しないといけないと思っていましたが、当時は、立ち上げなどで時間的制約もありなかなか動けず、責任を感じました。
― 寄付は、お金がどう活かされたかを報告することが、大切ですからね。
竹川 私自身もベンチャーをやっているので、お金を預かることの大切さ、1円稼ぐことの大変さを実感しています。そこで、自分で責任を持ってできることをやろうと、次に考えたのが「メドックマラソン※」のような楽しいマラソン大 会でした。
※メドックマラソン:フランスのボルドー・メドック地方で、毎年ぶどうの収穫直前の9月に開催されるフルマラソン大会。給水ポイントで振るまわれるワインを飲みながらぶどう畑の中を走り、シャトー(ワイン醸造所)を巡り、チーズや生ガキ、ステーキを食べながらゴールを目指す。
― そもそも、なぜマラソンを思いつかれたのですか?
竹川 アメリカに留学していたときに、体重対策で走り始めて、ボストンマラソンでフルマラソンを走ったのがはじまりです。その後、野村證券のロンドンに配属され、ロンドンでも走りました。
― ご自身が市民ランナーなのですか!メドックマラソンのことはご存知だったのですね。
竹川 ロンドンにいたときに一度申し込んで、行けませんでした。メドックでは、ワインを飲んで、ワイン畑を走ります。ワインと日本酒は度数が同じだし、東北には田舎の原風景があるので、つながるのではないかと思いつきました。どこかにお金を払うだけだと、それだけで終わってしまいます。本質的にやりたいのは、その地域に笑顔を取り戻すことだと考えました。
― 目的は笑顔をとりもどすこと!
竹川 ハーバード大学で一番衝撃だったのは、「リーダーシップは、あなたの隣の人を笑顔にすることだ」と言われたことでした。それだなと思ったんです。復旧支援は、皆さんがしてくれています。心の復興のためには、笑顔を取り戻すこと。そのために、どうしたらいいか。
震災から1年が過ぎるころでした。一部の人は東北にボランティアに行き、多くの人は行かなかったけれど何かしたいと思っている。その気持ちを、東北の魅力とつなげることはできないか。外の人とつながり、東北を楽しんでもらうことで、東北の人に自信と笑顔を取り戻すことができないかと考えました。そのために、人が呼べる吸引力は何か?
― 食や日本酒のフェスティバルなどは、想像しやすいですね。
竹川 当時もやっていましたが、それだと地域の人が集まり、よほど有名なお祭りでもないと、全国から人を呼ぶのは難しい。でもフルマラソンだと、全国から集まるんです。自分自身がランナーだったので、地方でも行くな、と感じました。
東北の人たちの笑顔を増やすために、外の人と東北の人たちをつなぐ。それを、メドックマラソンの楽しい形と、地方でも行くというランナーの組み合わせで実現しようと考えました。
― そのときは、アメリカでベンチャーの仕事をなさっていて、行ったり来たりの二重生活で、企画を進めたのですか?
竹川 そうです。2012年9月にメドックマラソンに参加し、東北で開催するお墨付きをもらいました。一番大きなスポンサーなども決まり、最初の大会コンセプトのデザインも作りました。
― 決めていく力、さすがです。
竹川 ビジネスで培われた力です。関心をもってもらい、共感してもらい、人やお金、名前を出してもらうというアクションにつなげることは、一定のスキルが必要です。野村證券で、営業をやってよかったなと思うのは、そこですね。証券会社は株や債券で、会社の未来を売っています。見えないビジョン、次にある世界を伝えるのは、ある意味似ていると感じます。私たちが、比較的うまくいっていると言われるのは、そこかなと思います。
― あとは地元のOKと警察の許可というところ。
竹川 そこが実は大変でした(笑)。
アメリカから帰国し、マラソンの立ち上げに奔走
― 地元とのやりとりでは、なにが難しかったのでしょうか?
竹川 一番は、ビジネスでやることと、地域で実現させるための重要な点や、押さえておくべきフロー、物事の進め方が全く違うことでした。地元の方にお任せしていたところもあったのですが、まだ話が進んでいないのではないかと気が付いたのが、2013年の11月でした。
― 外側の準備は順調でも、地元では進んでいなかった!
竹川 皆さんを集めて、実行委員会をやろうとしたところ、地元から聞こえたのは「実行は決まっていない」という声。さすがに焦りました。
― そう、来ましたか!
竹川 特に言われたのは、地元の人たちの気持ちが温まっていないことでした。アメリカから何度か日本に帰りながら、リモートで準備していたけれど、自分自身、十分やってこなかったと素直に反省しました。仲間たちも、地元のいろいろなものと戦っているなかで、いま、自分にしかできないことは何かと考えました。アメリカの仕事を続けるか、辞めて帰国し、マラソンを立ち上げるか。
― 自分に問い続ける、横須賀高校の薫陶です(笑)。そこで帰国を決断しました!
竹川 はい、2013年の12月から翌年1月は、登米市に入り浸りました。いろんな方一人ひとりと会い、信頼関係を築いていけば、理解していただくことができました。最後は、警察の道路使用許可です。
― 面白いのは初年度のチラシ。端っこに「飲酒運転禁止」のマークがありますね(笑)。
竹川 走るのは、湖のまわりの管理道路のようなところですが、メドックのように日本酒を飲みながら走ることは、完全にだめでした。日本酒やアルコールにつながるイメージもいけないと、最初のチラシは、警察のご指導をいただいたものになっています(笑)。
― それ、いつごろですか? マラソンの予定は、2014年4月27日ですよね。
竹川 マラソン大会は、半年から1年前にエントリーを開始します。遠方の大会では、旅行の予定も必要です。2月に入っても決まらず、実施の2か月前に、市長の記者会見が決めてありましたが、その前日の夕方5時半に、警察から電話で「わかりました」と言っていただきました。
― ギリギリセーフですね。ところで、登米市を選んだのは?
竹川 メドックの東北版をやるための重要な条件は、フルマラソンができること。東北のいいものを集められ、沿岸被災地の人たちも集まれる場所で、かつコースがとれる場所と考えたときに、ぴったりの場所、登米市の「長沼フートピア公園」を紹介されました。石巻市、気仙沼市、南三陸町から1時間くらいで、復興支援の拠点だった場所です。
― まさに象徴的ですね。
第1回目の開催と、これからに向けて
― ようやく、第1回「東北風土マラソン&フェスティバル」が開催されました。
竹川 人が集まるのかと心配でしたが、1,300人集まりました。
― 発表から2か月、短期間に頑張りましたね。
竹川 やるぞとは、いろいろなところに言っていたし、スポンサーさんにも待っていただいていました。たぶん1,300人の半分は、一緒にやっていた復興支援に想いのある20人くらいの仲間の知り合いとか、その知り合いじゃないかと思います。少なくとも、12人は竹川家でした(笑)。
― 一家総出(笑)。1,300人も集まり、皆さん嬉しかったでしょう
竹川 何よりもよかったのは、地元の方に「ああ、こういうことなんだ」と、やっと理解していただけたことです。この1回目がなかったら、そのあとは難しかったと思います。
― 次回は6回目です。年々、参加人数が伸びていますね。
竹川 次は、ランナーが7,000人を超えるくらいかなと思っています。会場のキャパシティもあり、どれくらいの人数が必要かと考えると、これからは、定着させるほうが大事だと思っています。最初は立ち上げと成長の5年。あとの5年は、定着と地元化の5年という位置付けです。
― 地元化は、進んでいますか?
竹川 正直、現在進行中です。自分も含めた外の人が来て、地元の方々と一緒につくりあげていくという感じですが、それはそれでいいと思っています。実行委員会や事務局として動く人もいれば、ボランティアリーダーで運営側に近い立場で動く人も、数日のボランティアもいれば、ランナーという形の参加や、来て楽しむだけという人もいます。いろいろなレイヤーがあっていいと思います。
― 交流人口がいろいろですね。
竹川 一方で、地元の方々には、地元のイベントとして、自分事にしていっていただきたいと思っています。継続性からも、「東北と世界をつなげる」というミッションから考えても、地元で愛される大会にすることが大事だと思います。
― そのために何が必要ですか?
竹川 以前は、引き継いでくれるひとりの強力なリーダーが出てほしいと思っていたけれど、地方の場合は、組織として継続していく形が重要ではないかと思います。例えばこれまで、実行委員会は、地元の人と外の人が半々くらいでした。今年は7対3くらいにして、地元の人数を一気に増やしました。東京から行く人が多ければ、交通費や宿泊費がかさみます。地元が増えれば、大会としても、地元にお金を落とすことができます。それが第一歩だと思います。
― マラソンのこれからは?
竹川 2020年大会か、第10回記念大会か、それ以降かわかりませんが、南三陸町と登米市をつなぐマラソンを実現したいと思っています。南三陸町の新しくできた庁舎から、長沼フートピア公園までは、40キロくらいです。実は、最初に描いていたコースが、そこでした。
― このマラソンにかける夢とは、どんなものですか?
竹川 メドックマラソンは、いまでこそ有名ですが、35年ほど前、シャトーの2代目3代目たちが、メドックワインがあまり売れなくて始めた大会でした。それを仕組みにして、地域には大きな経済効果が生まれましたが、一番重要なのは、メドックワインをグローバルブランドにしたことです。それには、外から人が集まり広まったこともあるけれど、地域の人が自信をもって外に発信していったという両面があります。
私たちは、30年かけても、東北の酒や米、牛肉などのよいものを、ひとつでもふたつでもグローバルブランドにするような大会にしていけたらと考えています。
― 外国からの参加者も増えていますから、期待できますね。最後に、ご自身の夢は?
竹川 そうですね、世界平和かな(笑)。自分のまわりの人から、笑顔が広がっていくような世界をつくっていくことが、一番大切だと思っています。
― 震災で「日本が故郷になった」という竹川さんの言葉が、胸に残ります。みんなを笑顔にして、世界を平和に。マラソンイベントに、そのヒントがありそうです。私たちも笑顔をいただきました。
きょうはありがとうございました。
【インタビュー】
公益社団法人日本フィランソロピー協会
理事長 高橋陽子
 
(2019年1月8日 新丸の内ビルディングにて)
 
 
特別鼎談/No.390
若者たちが挑戦する復興支援 それぞれの想いを未来につなげて
一般社団法人あすびと福島 学生パートナー代表
菅野 智香 さん(かんの・ともか/福島県郡山市出身/明治大学3年)
早稲田大学気仙沼チーム
北村 勇樹 さん(きたむら・ゆうき/栃木県小山市出身/早稲田大学3年)
一般社団法人 三陸ひとつなぎ自然学校 学生インターン
特定非営利活動法人東北岩手応援チャンネル 学生サポーター
小松野 麻実 さん(こまつの・あさみ/岩手県釜石市出身/桜美林大学4年)
東日本大震災を契機に、多様な人々が復興支援をするなかで、若い人たちが、それぞれの想いを抱き、積極的に活動する姿がある。3人の大学生に聞いた。
それぞれの震災復興
― まず、活動についてお聞きします。
菅野智香さんは福島県郡山市出身で、「高校生が伝えるふくしま食べる通信」こと、「こうふく通信」の発案者であり初代編集長でした。福島の生産者の想いを、高校生が取材して記事にした情報誌に、福島産の農産物などをセットにして、読者にとどける取り組みなのですね。
菅野智香さん(以下敬称略) はい。はじまりは、岩手県花巻市の「東北食べる通信」でした。本来、生きることと食べることは密接に関わっているのに、消費地と生産地がかけ離れて、食べることが蔑ろにされている。このことに問題を感じて、顔が見える関係をつなげて、日常の中で食べることに向き合っていこうという取り組みです。
わたしは、高校生のときに、福島の農産物への風評被害を払拭したいと思い、この「東北食べる通信」の理念に共感しました。福島県産の農産物は、しっかりと検査されているけれど、無機質な数字では、安心できないと感じていました。生産者の顔が見え、安心して農産物を買える関係をつくりたいと思い、福島の「食べる通信」を始めました。
― 岩手県釜石市出身の小松野麻実さんは、ご自身の大学などで、被災地の語り部をなさっているとか。他には、どのようなことを?
小松野麻実さん(以下敬称略) 3年生の夏休みに、釜石市の「一般社団法人三陸ひとつなぎ自然学校」で、復興庁の復興創生インターンという実践型インターンシップがあり、その理念に共感して参加しました。地元の方が、外から来た人たちに釜石を第二の故郷だと思ってもらえるような活動をしていて、以来、一緒に活動しています。
― 小松野さんは、防災教育にも力を入れていますね。
小松野 震災で思ったのは、防災教育を受けている世代と、受けていない世代の差がとても大きいことです。親の世代は、「釜石にはギネスブックに載った防波堤があるから、逃げなくていい」と言ってる人が多かったなか、防災教育を受けていた子どもたちは、逃げたんです。
― 大人は逃げなかった?
小松野 言い伝えはありましたが、片田敏孝先生(当時群馬大教授で、現在は東京大学大学院情報学環 特任教授、群馬大学名誉教授)が、釜石の小・中学校を回って、防災教育の大事さを言い続けてくださいました。そのおかげで、鵜住居(うのすまい)小学校、釜石東中学校と釜石小学校の3校が「釜石の奇跡※」として取り上げられました。
いま釜石の学校では、人事異動で、震災を経験していない先生が、震災を経験していない子どもを教えるようになっていることが、課題です。学校に任せず、地域に防災教育の軸があれば、先生が異動しても、それを利用して持続的にできます。わたしもその地域側になりたくて、防災の勉強をしたり、伝えたりしています。伝えるにはファシリテーションも大事なので、防災教育のファシリテーター養成講座も受けています。
「釜石の奇跡」
釜石市には、昔から伝わる「津波てんでんこ」という言葉がある。「家族のことは気にせず、てんでばらばらになって逃げて、自分の命を守りなさい」という意味である。この教訓に基づき、当時群馬大教授だった片田敏孝氏(現:東京大学情報学環 特任教授)の指導で、津波からの避難訓練を実施していた岩手県釜石市の小中学校では、全児童・生徒が避難して、その生存率は99.8%だった。これが「釜石の奇跡」と呼ばれた。
― 北村さんは栃木県小山市出身。ボランティア団体「早稲田大学気仙沼チーム」で活動しています。その活動内容は?
北村勇樹さん(以下敬称略) 気仙沼市内の仮設住宅や災害公営住宅をまわって、お楽しみ会をやりコミュニティづくりを目的にしています。高齢の方が多いので、月1回でも外に出て、工作やゲームで楽しんでもらおうと、1・2月に1度、現地に行く活動で、15 人くらいでやっています。
― その費用は?
北村 企業からの助成金です。その他に、気仙沼市が関わっている、現地や東京でのイベントで、市から依頼があると手伝います。主に、このふたつが活動です。
震災を機に、秘めた想いから始まった
― みなさんは、東日本大震災の発災時には中学生。活動のきっかけは、どのようなことだったのですか?

菅野智香さん
菅野 震災当時は中学1年生でしたが、早く都会に出たいという気持ちが強くて、地元に対して、特に思い入れはありませんでした。でも震災で、郡山市は、沿岸部に比べたら被害は少なかったのですが、通学路がひび割れたり瓦が散乱したり、部活で使っていた施設が半壊して使えなくなりました。13歳には大きな衝撃で、自分が住んでいた町がなくなってしまうのではないかという恐怖心を抱き、自分で何かしなければいけないという気持ちになりました。
― 郡山市は、放射線量が高かったんですよね。なんとかしてほしいじゃなくて、何かしなければと思うとは、しっかりしていましたね。
菅野 といっても、中学生にできることは何もありません。でも、今まで持っていなかった地元への愛着が芽生えて、福島のために働きたいという想いが、じわじわと出てきました。
高校2年生のときに、同級生から高校生対象の「あすびと塾※」に誘われました。高校生自身が見つけた目標を実現させて、小さくても事業を立ち上げて前進させていこうという活動です。そこで、自分は何をやりたいのかと考えたときに、「福島の復興に携わること」が一番に出てきました。
※あすびと塾:一般社団法人あすびと福島 による、福島の復興のために、次代を担う若い社会起業家=「福島型アントレプレナー」の早期育成に取り組む。対象は小学生から大学生まで。
― 中学1年生のときの想いを、実現する機会が巡ってきました。
菅野 「あすびと塾」で語り合うなかで、当時は風評被害があり、福島の農作物が適正な価格で売れなかったので、農業を復興させて全国に広めていくことで、福島全体の復興に繋げられるのではと考えたのです。
― 小松野さんは釜石ですから、津波で大変でしたね。そのときは?

小松野麻実さん
小松野 釜石中学校2年生でした。釜石中学校は内陸部にあったので、避難所になりました。わたしの家は海に近かったのですが、高台で、波は家の前ぎりぎりまでで大丈夫でした。でも通行止めで家に入れず、数日は、避難所にいました。そこに、地域で知っている人たちが避難してくるのを見て、いてもたってもいられなくて、学校が始まるまでの1か月、毎日ボランティアをしました。
― どんなことを?
小松野 避難所運営とトイレの清掃、子どもの世話、物資運びや食事の配膳などです。トイレの水が流れず、毎回バケツに水を汲んで流すのですが、高齢者には大変なのでお手伝いしました。
― 中2で、よくそこまでやろうと。友だちも一緒ですか?
小松野 いえ、ひとりで。もともと釜石が大好きなんです。両親が共働きで、じいちゃん・ばあちゃんに育てられました。小さいころから連れられて、地域の祭りに行ったり、面白い人たちに会ったり。地元に大学がなくて、東京にはしぶしぶ出てきたんですが、釜石の地域性や自然が大好きで、何かやりたいと思っていました。
― おじいちゃん・おばあちゃん子だから、避難所でも、お年寄りのことが気になったのですね。一方、被災地出身ではない北村さんのきっかけは?

北村勇樹さん
北村 高校2年生のときに、高校の夏の研修で、東北大学のオープンキャンパスと共に被災地研修があり、そこではじめて被災地を訪れました。震災から3年目で、気仙沼市、陸前高田市、大船渡市を訪ねて、語り部の話を聞きました。
行ってみた被災地は、自分で思っていた被災地とまったく違っていました。一番驚いたのは、栃木に帰ったときに、明るいなと感じたこと。それだけ被災地には、何もなかった。栃木から100キロ、200キロしか離れていないのに、こんなにも生活レベルに差があるんだと、衝撃を受けて、自分にできることがないかと思いました。でも、高校生でできることは知れています。大学に行ったら、必ずひとつでも活動をやろうと決めました。
― 想いをずっと温めて、それで早稲田大学に?
北村 受験のときに大学を調べると、パンフレットに「早稲田大学気仙沼チーム」が載っていて、これだ!と。それが、大学に入るモチベーションになり、新入生歓迎会からそこに行き、ずっと活動しています。その年だけ、たまたま掲載されたみたいです。
― 呼ばれたんですね。そして、早稲田大学気仙沼学部に入学ですか(笑)。みなさん、いろんなつながり、ご縁があったのですね。
活動のこれから
― 震災から8年を経て、活動に変化はありますか? 菅野さんは、「こうふく通信」の高校生たちのサポートをされているそうですが。
菅野 いまは、大学生になった元編集部のメンバーが東京に来ているので、仮の名前ですが、大学生が伝える福島「だいふく通信」をやりたいと思っています。「こうふく通信」とコラボレーションをしながら、東京にいながら、福島を身近に感じてもらえるような企画ができたらいいなと、水面下でじわじわ活動しています。
― 「こうふく」と「だいふく」のコラボ、いいですね!
小松野さんは大学4年生。大好きな釜石に帰るか、帰らないかで悩みませんか?
小松野 大学3年生までは釜石に帰りたかったのですが、4年になり、「特定非営利活動法人東北岩手応援チャンネル」と出会いました。東京を拠点に、岩手全体を盛りあげる活動をしていて、東京で釜石のこともできるんだとわかり、迷っています。でも、そろそろやばいです(笑)。
菅野 わたしも近いものがあります。地元には行きたい大学がなくて、いい社会勉強だと思って東京に出てきました。すぐに戻ると宣言していたけれど、東京に来たら、できることが見えてきました。
― 人と出会い、つながると、世界が広がっていきますね。「早稲田大学気仙沼チーム」はどうですか?
北村 実は、去年秋に、チーム解散の危機がありました。理由は、活動の方向性です。仮設住宅の方が、マンションや一軒家に移られて、コミュニティづくりのニーズがなくなっています。チームでは「復興」について、「現地の方が自立した活動ができ、ボランティアがいらなくなるとき」をゴールと考えています。公営住宅では自治会ができて、自分たちでイベントなどの活動をやりたいという。そうなると、他にどんな活動ができるかと議論になりました。
また、震災のとき、ぼくは中1でしたが、当時小学生で被災地出身でない後輩たちは、記憶もあまりないようです。参加者が少なくなり、活動も制限されるようになりました。
― 議論の結果は?
北村 東京の活動に力を入れることに。毎年3月11日に、早稲田大学で追悼企画のイベントを開催します。そこで、気仙沼市の現状を東京の人たちに伝えるイベントをやっていますが、まずは、それを継続していこうと準備をしています。
復興を、地域の力・再生につなげるために
― お話を聞いていると、皆さんいわゆる「ファーストペンギン」なんだなと感じます。想いを強く持ち、最初に飛び込む人ですね。そこから復興をさらに進めるためには、意識やアクションを広げていかないと、地域の力、再生になりません。広げ るために、どんなことをしていますか、あるいは考えていますか?
菅野 「こうふく通信」でいうと、創刊当時は、わたしとひとつ下くらいの年代は、福島の農産物の風評被害を払拭したい想いで活動をしてきました。でも、現役の高校生は、震災当時、小学校の中学年くらい。当時の記憶があまりなかったり、風評被害を身近に感じていない世代になっています。
彼女や彼らのモチベーションは何かというと、自分の地元について、もっと知りたい。地元の魅力を発信したいところにきています。東京で、福島の農産物を売るマルシェがあると、とても好評です。ありがたいことに、風評被害もだんだん収束してきているところもあるようで、それが現役の高校生の気持ちとリンクしてきていると感じます。
― 震災を実感として知らない人たちに刺さるコンテンツが必要で、それが、結果的に復興につながっていくと。
菅野 そうですね。郡山に関していえば、被災地ではなく、一地方都市の立ち位置にきているのかと感じます。二拠点居住、関係人口という言葉がありますが、地域の魅力を発信して、「ふるさと」に選んでもらえるかというフェーズに来ていると思います。
小松野 広めること、伝えること、ほんとに課題です。地域と関わり、自分の故郷を知れば、郷土愛が芽生えて、それがいい方向に行くのではないでしょうか。同世代に会うと、「すごいね」「偉いね」と言われますが、あきらめずに、言い続けています。地元の祭りだけでもいいから、帰ってきてほしいという希望があります。活動している「三陸ひとつなぎ自然学校」では、子どもたちへの授業をやっていて、釜石のよさを伝えつづけたいです。
北村 大学生の震災への関心でいうと、チームに興味を持ってもらえない一番の原因は、若者の視野が狭いことです。たまに会う友人は「まだボランティアやってるの?」「やることある?」と言います。でも、実際にはまだまだですから、その視野の狭さは、どこから来ているのか。だからこそ、ぼくたちのチームは、東京で人数も多い大学で、それぞれがいろんなネットワークを持っているので、そこで広めていければと思っています。
また、早稲田では、他にも、陸前高田や釜石にボランティアに行っているチームがあります。他の大学にも、同じような団体がありますが、交流会をすると、企業の助成が終了し、現地へ行けなくなったり、つぶれた団体もあると聞きます。ぼくたちが頑張って、成功例、ロールモデルになれないかと思っています。NPOはたくさんあるけれど、大学生のボランティア団体は少ないので、そこを増やしていければと思います。
― 大学生の関わりが増えれば、大学同士の連携もできそうですね。北村さんは、高校のときの熱量は変わらないですか?
北村 大学に入ってから増しています。何もしないよりも、現地で活動して、少しでも貢献できている感覚が得られると嬉しいし、活動の原動力になって、また行きたくなる。第2の故郷みたいな感じです。
― 最後にこれからの抱負、夢は?
菅野 地元に住んで、どうしたら貢献出来るかということばかり考えていたけれど、地元から離れる視点も持つようになりました。緩やかな関わり方のできることも気に留めながら、大好きな郡山、福島と関わっていきたいと思います。
小松野 今年(2019年)から社会人になります。どんな仕事か、まだわかりませんが、いままで関わってきた団体との関わりを続け、釜石だけでなく、岩手全体を盛り上げていきたいと思います。
北村 ぼくには、復興支援に関わらず、人生の壮大な夢があります。以前から日本では、地方創生といわれてきているのに、できないまま何十年。東北は、震災で、通常の地域の衰退の何十年も先に行ってしまったという人もいます。東北の震災復興は地方創生だと思っているので、夢としては、地方創生を成し遂げたい。職業としてやるかどうかはわかりませんが、その視点も含め、関わり続けていければと思います。それには、地元の人だけでなく、外の人の視点も絶対に必要だと思っています。
― 故郷はそれぞれのなかにあり、震災によって日本人がひとつになったとき、日本が故郷だとの想いを強くした人は多いのではないでしょうか。人がつながり交流することで、被災地の再生と、日本の未来への地域づくりが重なります。
皆さんと被災地の縁がつながり、各地域に元気な産業が興り、課題先進地域になった東北が、日本を牽引するモデルになれるようがんばってください。
きょうはありがとうございました。
【モデレータ】
公益社団法人日本フィランソロピー協会
理事長 高橋陽子
 
(2019年1月15日 公益社団法人日本フィランソロピー協会にて)
機関誌『フィランソロピー』2019年2月号/No.390 おわり