巻頭インタビュー

Date of Issue:2018.4.1
<プロフィール>
高木俊介さん
 
たかぎ・しゅんすけ
1957年、広島県生まれ。1983年、京都大学医学部卒業。大阪府内の私立精神病院と京都大学医学部附属病院精神科にそれぞれ10年間勤務。日本精神神経学会で、精神分裂病の病名変更事業にかかわり「統合失調症」の名称を発案。2002年に正式決定された。2004年、京都市中京区に「たかぎクリニック」開設。著書に「ACT-Kの挑戦」(批評社)、「こころの医療宅配便」(文藝春秋)など。
巻頭インタビュー No.385
みんな 違って、みんな しあわせに
精神科医師
高木 俊介
2004年に京都で設立された日本初の精神科在宅医療サービス「ACTーK」。統合失調症という精神障がいを抱え、家にひきこもったり、入退院を繰り返す人に、生活の場で、治療、リハビリテーション、生活支援、就労支援までを一貫して行う。精神科医師と看護師、精神保健福祉士、作業療法士などの医療と福祉の多様な職種の人びとが連携し、チームで取り組んでいる。
ACT-Kを運営する精神科医師高木俊介氏に、地元のクラフトビールのある京都河原町のパブで話を聞いた。
精神分裂病から統合失調症へ
― はじめに、先生のご専門の統合失調症について教えてくだい。遺伝要因や環境要因があるのですか?
高木 両方ありますが、難しいのは、統合失調症というひとつの病気があるかどうか、まだ、わかっていないことです。10年前までは、発達障がいの大人は統合失調症と診断されました。障がいの重い人が、何の援助もなく社会に出て挫折すると、統合失調症と同じ症状になります。
― 追いつめられると、同じ症状がでてくるということですか?
高木 幻覚や妄想は特別なことではなく、人間を3日間閉じ込めて、コミュニケーションができないようにすると、誰にでもでる反応です。
― 誰にでも、ですか!
高木 統合失調症の概念をはじめて導入したブロイラーによると、その中核症状は、自閉的世界に閉じこもっていることだと言っています。現実との接触で、生活のしづらさからストレスを受けて、二次障がいとして幻覚や妄想がでてきます。しかし、人は、幻覚や妄想という訳のわからないものは、自分たちとは切り離したい。だから人間の反応ではなく、脳の障がいだ。心が分裂した恐ろしい病気だと考えてしまう。
― そういった偏見があり、病名が「精神分裂病」から「統合失調症」に変わったのですね。ずいぶん印象が変わりました。
高木 当事者が名乗れますし、テレビドラマにも登場しますね。
きっかけは、1992年に、全国精神障害者家族会連合会から、病気と病名とで二重の苦しみがあるので、病名を変更してほしいと学界に申し入れがあったことです。それに対して、精神改革を進めてきた基幹の学会(病院地域精神医学会)では、英語の「スキゾフレニア」を訳した伝統のある名前だと、年配の教授たちが反対。わたしは、当事者の声だし、これからの情報化時代、精神科についてマスコミが取り上げるときに、「精神分裂病」では爆弾を抱えた箱のようで適切ではないと唱えて、賛同してくれる同年代の人たちと委員会を立ち上げました
― 2002年に正式に名前が変わったので、なんと10年かかりました。
高木 アンケートやシンポジウム開催で、新しい概念をつくろうとムーブメントを起こし、ようやく学会も賛成する方向になったとき、家族会が費用を出して、朝日新聞に3つの候補で名前を公募する一面広告をだしました。
― 「誰の『精神』も『分裂』してはいないから」というコピーでしたね。精神科としては、前例のない広報戦略です。高木先生発案の「統合失調症」に決定。言い得て妙な名前を考えました!
高木 「分裂」を「統合」と反対にしただけ。自律神経失調症は知られているから「失調」ならいいだろう。しかも治るという雰囲気がある。
― ネガティブがポジティブになったことがすごいです!それほど身近な病気だということですね。
高木 統合失調症は、100に1人がかかる病気です。かつては身近にいたけれど、日本では、この30年40年の間に見えなくなった。それで、得体のしれない病気というイメージが生まれました。
日本は世界一の精神病院大国
― 100人に1人とは驚きですが、見えなくなったとは?
高木 戦後の「高度成長期」、日本は重化学工業に移行するために、工場労働者として、農村から都市部へ人口を大移動させました。戦前から日本の福祉は遅れに遅れていたので、農家では、家庭でさまざまな障がいのある人の世話をしていました。それでは家族が移住できず、女性も重要な労働力としてパートタイムに出られない。「障がい者は、日本にとって経済的損失である」と、国策で施設に収容して労働力を確保しました。知的障がいの人はコロニーに、身体障がいの人も施設に入りました。
― そして、精神障がい者は精神病院ですね。
高木 病院は、人里離れた土地の安い山奥に建設され、国は病院数を増やすために、精神科の医師や看護師の数を規制緩和。こうした政策的・経済的な理由から、日本では精神病院が急増し、強制収容したので、地域から精神障がい者が消えました。
― 今では、知的障がい者も、身体障がい者も、普通に見かけるようになりました。
高木 まず、身体障がい者たちが情報を得て、1970年代から欧米の自己決定権を掲げて、町で暮らしたいと運動を始めました。知的障がいでは、親御さんたちが運動を始めて、行政と交渉しコロニーは解体。地域に作業所を作り、町で暮らせるようになりました。
一方、遅れたのが精神障がいの人たちです。自分たちでは声をあげられない。発症するのが20代、30代と遅く、病院にいる間に親御さんが高齢化し、そのまま閉じ込められてきました。日本は、世界の中で、精神病院の多さが際立っており、ベッド数は先進諸国の10倍と、精神病院大国です。
― ほかの国々は、どうなのですか?
高木 先進国でも、近代化するときに、つぎつぎと精神病院を作りましたが、人を閉じ込めたら、ますます悪くなった。そこで戦後の経済成長のころに、地域に戻していきました。
― 当協会では、イタリアの「人生ここにあり」という映画を上映したことがあります。実話に基づいた精神病院を開放する映画で、イタリアでは、精神病院は全部廃止なのですね。笑いあり、かつ感動的な映画でした。地域で、精神障がい者たちと接すれば、見方も変わります。
高木 よくみれば、みんな、どこかが発達障がいです(笑)。近寄ってみたら、みんな「おかしい」。
― おかしくて、一人ひとりが、かけがえがないということですね。
精神病院の在り方
― 京都大学医学部に進まれて、なぜ精神科を選ばれたのですか?
高木 全く勉強をせず、水俣の支援に行ったり映画を上映するのが面白く、追試追試でした。そこで、学生運動時代の生き残りの人たちと出会い、彼らが精神科に興味をもって社会活動をしていたので、誘われて精神科を選びました。そして、京都大学医学部附属病院の精神科で研修医をしているときに「宇都宮病院事件※」が起きました。
【宇都宮病院事件】1983年に、栃木県宇都宮市の精神科病院報徳会宇都宮病院で起きた事件。看護職員らの金属パイプによる暴行事件で、患者さん2名が死亡した。
― 日本の精神病院の在り方が問題となり、国連人権小委員会から告発されました。
高木 院長はゴルフクラブのアイアンを持って回診していたというので、精神科とは、なんというところなのかと思いました。この事件が原点だともいえます。
― 先生ご自身の社会活動の原点。
高木 このまま大学に籠っていていいのかと思い、大阪の光愛病院に移りました。革命家みたいな医者が集まっているところで、精神病院を開放しようとしていました。そうはいっても当時の病院なので、問題はありました。そのときは必要だと信じて、精神障がい者を布団で簀巻きにして収容したこともありますが、あとになって、多くの人が傷つき引きこもってしまうことを目にして、考えました。50人が雑魚寝するような閉鎖病棟の大部屋では、患者同士のケンカも絶えず、当直の仕事は、ケンカの仲裁が中心でした。
それでも、外部とのつながりのある病院で、地域で暮らす精神障がい者の生活を支える保健所や、福祉事務所の人たちと接することができました。支援があれば、重症でも地域で暮らしていけることを知ったことは、新鮮でした。
― その体験が、のちの活動につながると。まず大阪から京大附属病院の精神科に戻られて、精神分裂病の病名変更でムーブメントを展開して10年。いよいよ地域の生活の場で、在宅医療に着手することに。
ACT※ がぶつかった壁
【ACT】ACT-K(Assertive Community Treatment)包括型地域生活支援プログラムは、2004年4月「たかぎクリニック」、「ねこのて訪問看護ステーション」、「NPO法人京都メンタルケア・アクション」により、京都で設立された。
高木 当初は、在宅医療の制度もなく、熱心な内科医さんが一生懸命にやっていたのを知り、精神科でも同じことをやればよいと始めました。数年したら、在宅医療にお金が入るようになり、スタッフも20人雇って、保健所や福祉事務所から、病院もなく地域に閉じこもったままの患者さんを、どんどん紹介してもらいました。
― 患者さんと家族には救世主です。
高木 全国でACTに取り組むところも現れ、3、4年は毎週、講演をしていました。ところが、10年を経れば、制度も世の中も変わります。今では制度が追いつかず、医療費そのものがおさえられて、適応範囲が厳しくなりました。大きな壁にぶつかっています。
― 制度が追いついていないとは?
高木 当時は、国が在宅医療を積極的に推進しましたが、いろんな企業が大規模にやりはじめ、内容の伴わないものもあり、厚生労働省が引き締めにかかっています。これからの在宅で必要なのは、看取りだといわんばかりです。
― 本来の在宅の意味から変わった?
高木 変わっています。病院が訪問看護ステーションを持ち、地域を囲い込む形になりました。問題はベッド数。足りないので、病院にいられるのは、医療行為ができる間だけ。終わったら在宅で看取りです。
― 医療と福祉を担うことは、もうしないのですか?
高木 制度的にはなくなりました。やろうと思うと、かなり貧乏を覚悟しなければなりません。病院なら当直の医師がいますが、地域で24時間待機するのは大変です。これまで、制度をうまく利用してやってきたところは頑張ると思いますが、新規に参入してくる医者がいなくなる。
― それは、障がい者自身にとってどうなのですか?
 
一乗寺ブリュワリーのクラフトビールがある
「ICHI-YA」
(京都市中京区御幸町通蛸薬師下ル船屋町384)
高木 障がいのある人には、訪問看護でも、生活支援をやらなくては意味がありません。
血圧を測るだけでなく、訪問のときに、自分のできないことを少し手伝ってほしいと思っても、ヘルパーのやることだと切られていく。一方、ヘルパーさんは低賃金ですから、やることだけやったら帰ります。障がい者だけでなく、これからの老人の爆発的な増加に、制度がついていっていない現状です。
― 時代に逆行しているような…。先生のなさっていることは、これからますます必要ですよね。
高木 そう思ってやっています。生活支援や親密な人間関係をつくれば、薬がなくても、よくなる人はたくさんいます。
― 統合失調症も人間関係でよくなると?
高木 統合失調症という特性を持った人が、生活のしづらさから、ストレスで幻覚や妄想をもったり、怒りっぽくなったり、興奮したり、うつになったりしています。
― その生活を改善しストレスを取り除けば、症状がなくなる。それが、ACTの医療と福祉の融合ですね。
統合失調症と就労
― ACTでは、生活支援とともに就労支援にも取り組んでいますが、統合失調症の人にとって、就労はどんな意味があるでしょうか。
高木 統合失調症の人で、一番の問題は、プライドや自信をなくしていること。自分で自分を差別している。働くことは、それを取り戻すために一番大切です。わたしが社会に出られない人たちを見続けてわかったのは、彼ら・彼女たちも、「本心では、人とつながりたい」。仕事をすることは、回復に大いに役立ちます。
例えば、普通に見たら働けないような重症の人ですが、一緒にポスティングをやりました。疲れやすく、一人では出られません。訪問スタッフは周囲を回りますから、一緒に出かければ、自分で場所はわかるし、車に乗りながら地図も見る。ポ スティングで支払われたお金を手渡すと、その人はどんどんよくなりました。
― まあ、それでよくなるんですね。
高木 はじめて、お母さんにプレゼントができ、母娘で喧嘩ばかりしていた関係もよくなりました。仕事で評価されること、役に立つことの意義は大きいと思います。
― その人にあったものがあれば、少しの間でも働いた方がいいですか?
高木 働くことの意味を、変えないといけないと思います。
重症だから働けないのではなくて、重症の人でも働けるものがある。1日8時間、週5日間続けられることが、働く能力だと考えることが、間違っています。1週間1時間でもいい。働いたら、その1時間分の最低賃金を支払う。そういうこと ができないかと考えています。
全国ネットワークで農福連携クラフトビールの夢
― ビールづくりのきっかけは?
高木 ビールづくりの周りには、ビン詰めやラベル貼りの作業があります。原料が乾燥物で、季節を問わないから職人が育ちやすいと考えて、2011年に、一乗寺ブリュワリーという醸造所を開設しました。
― クッキーやアクセサリーだけでなく、ビールづくりもありと!京都では、いま、クラフトビールがブームだと聞きましたが。
高木 これを一過性の流行ではなく、京都の文化にしていきたいと思います。障がいのある人にも、「一流品をつくる」ことで、プライドを持ってほしい。しかし実際には、医者のわたしがやるのですから、商売のことはわからない。ビールはできたものの、どこで売ればいいかわかならない。レストランもやったけれど、うまくいかず赤字続き。そんなとき、祇園エリアを中心に人気店を経営する社長と出会いました。このお店もそうですが、わたしの考えに賛同し、2015年にブリュワリーの経営に加わってもらうことで、経営を立て直すことができました。
一乗寺ブリュワリーでの、障がい者の直接雇用はできていませんが、先輩の精神科医で、自閉症を専門とする門眞一郎さんが地ビールファンで、 自ら「西陣麦酒」という醸造所を始めました。そこでは、自閉症の人がブリュワ―で、補助金で瓶詰の機械なども備えています。わたしも相談にのり、その開設に協力しています
― 再生した一乗寺ブリュワリーでは、ビールの国際コンクールで金賞を受賞。次のステップは、どうなさるのですか?
高木 はじめは、障がい者の直接雇用を考えましたが、わたしの会社は小さすぎるので、広い連携による雇用を実現したいと思っています。それが農福連携。京都産のホップや麦芽でビールをつくります。京都は農福連携が進んでいる地域で、府庁のなかに農福連携センターがあり、今年は1億円の予算がつきました。しかし、最初から京都産でやろうとしても、なかなかスタートできません。
そこで、農福連携を全国ネットワークでやろうと思っています。ホップは、ホップで有名な岩手県から、石巻市のソーシャルファームがつくるものを。大麦は、群馬県の福祉作業所で大麦を蒔いてもらったので、春には育ちます。
― 全国ネットの農福連携ですか!
高木 キリングループの「スプリングバレーブルワリー」とも連携を進めています。京都のクラフトビールを提供したいということで、協力することになりました。
― さらに企業も巻き込んで!聞いているだけで、楽しくなりますね。それでは、今後の先生の夢は?
高木 京都から発信する、農福連携クラフトビールのプロジェクトを推進します。福祉事業所、ホップ生産者、介護福祉士、大学、小麦博士、デザイナー、飲食店経営者、そして精神科医。福島からも社会福祉法人こころんさんが参加し、多様な人が集まったチームができました。
障がいの有無を超えて協力し、なによりも「おいしい」ビールをつくりたいですね。それを、まずはおいしく味わっていただいて、楽しく飲んだあとに、障がいのある人もビールづくりに参加していることが伝わる。長く続けるためには、そんな順番が大切ではないかと思います。
― みんなが違うことを認め合い、同じ目線で支える ACT-K をはじめ、つぎつぎと新しいアイデアを考えて、まわりの人びとを巻き込み、奔走しておられる先生の活動に、わくわくしてきます。「みんなおかしい」がキーワード、先生もおかしい けど、わたしもおかしい!
きょうはありがとうございました。
【インタビュー】
公益社団法人日本フィランソロピー協会
理事長 高橋陽子
 
(2018年2月19日 京都「ICHI-YA」にて)
機関誌『フィランソロピー』No.385/2018年4月号 巻頭インタビュー おわり