巻頭鼎談

Date of Issue:2019.2.1
特別鼎談/No.390
若者たちが挑戦する復興支援 それぞれの想いを未来につなげて
一般社団法人あすびと福島 学生パートナー代表
菅野 智香 さん(かんの・ともか/福島県郡山市出身/明治大学3年)
早稲田大学気仙沼チーム
北村 勇樹 さん(きたむら・ゆうき/栃木県小山市出身/早稲田大学3年)
一般社団法人 三陸ひとつなぎ自然学校 学生インターン
特定非営利活動法人東北岩手応援チャンネル 学生サポーター
小松野 麻実 さん(こまつの・あさみ/岩手県釜石市出身/桜美林大学4年)
東日本大震災を契機に、多様な人々が復興支援をするなかで、若い人たちが、それぞれの想いを抱き、積極的に活動する姿がある。3人の大学生に聞いた。
それぞれの震災復興
― まず、活動についてお聞きします。
菅野智香さんは福島県郡山市出身で、「高校生が伝えるふくしま食べる通信」こと、「こうふく通信」の発案者であり初代編集長でした。福島の生産者の想いを、高校生が取材して記事にした情報誌に、福島産の農産物などをセットにして、読者にとどける取り組みなのですね。
菅野智香さん(以下敬称略) はい。はじまりは、岩手県花巻市の「東北食べる通信」でした。本来、生きることと食べることは密接に関わっているのに、消費地と生産地がかけ離れて、食べることが蔑ろにされている。このことに問題を感じて、顔が見える関係をつなげて、日常の中で食べることに向き合っていこうという取り組みです。
わたしは、高校生のときに、福島の農産物への風評被害を払拭したいと思い、この「東北食べる通信」の理念に共感しました。福島県産の農産物は、しっかりと検査されているけれど、無機質な数字では、安心できないと感じていました。生産者の顔が見え、安心して農産物を買える関係をつくりたいと思い、福島の「食べる通信」を始めました。
― 岩手県釜石市出身の小松野麻実さんは、ご自身の大学などで、被災地の語り部をなさっているとか。他には、どのようなことを?
小松野麻実さん(以下敬称略) 3年生の夏休みに、釜石市の「一般社団法人三陸ひとつなぎ自然学校」で、復興庁の復興創生インターンという実践型インターンシップがあり、その理念に共感して参加しました。地元の方が、外から来た人たちに釜石を第二の故郷だと思ってもらえるような活動をしていて、以来、一緒に活動しています。
― 小松野さんは、防災教育にも力を入れていますね。
小松野 震災で思ったのは、防災教育を受けている世代と、受けていない世代の差がとても大きいことです。親の世代は、「釜石にはギネスブックに載った防波堤があるから、逃げなくていい」と言ってる人が多かったなか、防災教育を受けていた子どもたちは、逃げたんです。
― 大人は逃げなかった?
小松野 言い伝えはありましたが、片田敏孝先生(当時群馬大教授で、現在は東京大学大学院情報学環 特任教授、群馬大学名誉教授)が、釜石の小・中学校を回って、防災教育の大事さを言い続けてくださいました。そのおかげで、鵜住居(うのすまい)小学校、釜石東中学校と釜石小学校の3校が「釜石の奇跡※」として取り上げられました。
いま釜石の学校では、人事異動で、震災を経験していない先生が、震災を経験していない子どもを教えるようになっていることが、課題です。学校に任せず、地域に防災教育の軸があれば、先生が異動しても、それを利用して持続的にできます。わたしもその地域側になりたくて、防災の勉強をしたり、伝えたりしています。伝えるにはファシリテーションも大事なので、防災教育のファシリテーター養成講座も受けています。
「釜石の奇跡」
釜石市には、昔から伝わる「津波てんでんこ」という言葉がある。「家族のことは気にせず、てんでばらばらになって逃げて、自分の命を守りなさい」という意味である。この教訓に基づき、当時群馬大教授だった片田敏孝氏(現:東京大学情報学環 特任教授)の指導で、津波からの避難訓練を実施していた岩手県釜石市の小中学校では、全児童・生徒が避難して、その生存率は99.8%だった。これが「釜石の奇跡」と呼ばれた。
― 北村さんは栃木県小山市出身。ボランティア団体「早稲田大学気仙沼チーム」で活動しています。その活動内容は?
北村勇樹さん(以下敬称略) 気仙沼市内の仮設住宅や災害公営住宅をまわって、お楽しみ会をやりコミュニティづくりを目的にしています。高齢の方が多いので、月1回でも外に出て、工作やゲームで楽しんでもらおうと、1・2月に1度、現地に行く活動で、15 人くらいでやっています。
― その費用は?
北村 企業からの助成金です。その他に、気仙沼市が関わっている、現地や東京でのイベントで、市から依頼があると手伝います。主に、このふたつが活動です。
震災を機に、秘めた想いから始まった
― みなさんは、東日本大震災の発災時には中学生。活動のきっかけは、どのようなことだったのですか?

菅野智香さん
菅野 震災当時は中学1年生でしたが、早く都会に出たいという気持ちが強くて、地元に対して、特に思い入れはありませんでした。でも震災で、郡山市は、沿岸部に比べたら被害は少なかったのですが、通学路がひび割れたり瓦が散乱したり、部活で使っていた施設が半壊して使えなくなりました。13歳には大きな衝撃で、自分が住んでいた町がなくなってしまうのではないかという恐怖心を抱き、自分で何かしなければいけないという気持ちになりました。
― 郡山市は、放射線量が高かったんですよね。なんとかしてほしいじゃなくて、何かしなければと思うとは、しっかりしていましたね。
菅野 といっても、中学生にできることは何もありません。でも、今まで持っていなかった地元への愛着が芽生えて、福島のために働きたいという想いが、じわじわと出てきました。
高校2年生のときに、同級生から高校生対象の「あすびと塾※」に誘われました。高校生自身が見つけた目標を実現させて、小さくても事業を立ち上げて前進させていこうという活動です。そこで、自分は何をやりたいのかと考えたときに、「福島の復興に携わること」が一番に出てきました。
※あすびと塾:一般社団法人あすびと福島 による、福島の復興のために、次代を担う若い社会起業家=「福島型アントレプレナー」の早期育成に取り組む。対象は小学生から大学生まで。
― 中学1年生のときの想いを、実現する機会が巡ってきました。
菅野 「あすびと塾」で語り合うなかで、当時は風評被害があり、福島の農作物が適正な価格で売れなかったので、農業を復興させて全国に広めていくことで、福島全体の復興に繋げられるのではと考えたのです。
― 小松野さんは釜石ですから、津波で大変でしたね。そのときは?

小松野麻実さん
小松野 釜石中学校2年生でした。釜石中学校は内陸部にあったので、避難所になりました。わたしの家は海に近かったのですが、高台で、波は家の前ぎりぎりまでで大丈夫でした。でも通行止めで家に入れず、数日は、避難所にいました。そこに、地域で知っている人たちが避難してくるのを見て、いてもたってもいられなくて、学校が始まるまでの1か月、毎日ボランティアをしました。
― どんなことを?
小松野 避難所運営とトイレの清掃、子どもの世話、物資運びや食事の配膳などです。トイレの水が流れず、毎回バケツに水を汲んで流すのですが、高齢者には大変なのでお手伝いしました。
― 中2で、よくそこまでやろうと。友だちも一緒ですか?
小松野 いえ、ひとりで。もともと釜石が大好きなんです。両親が共働きで、じいちゃん・ばあちゃんに育てられました。小さいころから連れられて、地域の祭りに行ったり、面白い人たちに会ったり。地元に大学がなくて、東京にはしぶしぶ出てきたんですが、釜石の地域性や自然が大好きで、何かやりたいと思っていました。
― おじいちゃん・おばあちゃん子だから、避難所でも、お年寄りのことが気になったのですね。一方、被災地出身ではない北村さんのきっかけは?

北村勇樹さん
北村 高校2年生のときに、高校の夏の研修で、東北大学のオープンキャンパスと共に被災地研修があり、そこではじめて被災地を訪れました。震災から3年目で、気仙沼市、陸前高田市、大船渡市を訪ねて、語り部の話を聞きました。
行ってみた被災地は、自分で思っていた被災地とまったく違っていました。一番驚いたのは、栃木に帰ったときに、明るいなと感じたこと。それだけ被災地には、何もなかった。栃木から100キロ、200キロしか離れていないのに、こんなにも生活レベルに差があるんだと、衝撃を受けて、自分にできることがないかと思いました。でも、高校生でできることは知れています。大学に行ったら、必ずひとつでも活動をやろうと決めました。
― 想いをずっと温めて、それで早稲田大学に?
北村 受験のときに大学を調べると、パンフレットに「早稲田大学気仙沼チーム」が載っていて、これだ!と。それが、大学に入るモチベーションになり、新入生歓迎会からそこに行き、ずっと活動しています。その年だけ、たまたま掲載されたみたいです。
― 呼ばれたんですね。そして、早稲田大学気仙沼学部に入学ですか(笑)。みなさん、いろんなつながり、ご縁があったのですね。
活動のこれから
― 震災から8年を経て、活動に変化はありますか? 菅野さんは、「こうふく通信」の高校生たちのサポートをされているそうですが。
菅野 いまは、大学生になった元編集部のメンバーが東京に来ているので、仮の名前ですが、大学生が伝える福島「だいふく通信」をやりたいと思っています。「こうふく通信」とコラボレーションをしながら、東京にいながら、福島を身近に感じてもらえるような企画ができたらいいなと、水面下でじわじわ活動しています。
― 「こうふく」と「だいふく」のコラボ、いいですね!
小松野さんは大学4年生。大好きな釜石に帰るか、帰らないかで悩みませんか?
小松野 大学3年生までは釜石に帰りたかったのですが、4年になり、「特定非営利活動法人東北岩手応援チャンネル」と出会いました。東京を拠点に、岩手全体を盛りあげる活動をしていて、東京で釜石のこともできるんだとわかり、迷っています。でも、そろそろやばいです(笑)。
菅野 わたしも近いものがあります。地元には行きたい大学がなくて、いい社会勉強だと思って東京に出てきました。すぐに戻ると宣言していたけれど、東京に来たら、できることが見えてきました。
― 人と出会い、つながると、世界が広がっていきますね。「早稲田大学気仙沼チーム」はどうですか?
北村 実は、去年秋に、チーム解散の危機がありました。理由は、活動の方向性です。仮設住宅の方が、マンションや一軒家に移られて、コミュニティづくりのニーズがなくなっています。チームでは「復興」について、「現地の方が自立した活動ができ、ボランティアがいらなくなるとき」をゴールと考えています。公営住宅では自治会ができて、自分たちでイベントなどの活動をやりたいという。そうなると、他にどんな活動ができるかと議論になりました。
また、震災のとき、ぼくは中1でしたが、当時小学生で被災地出身でない後輩たちは、記憶もあまりないようです。参加者が少なくなり、活動も制限されるようになりました。
― 議論の結果は?
北村 東京の活動に力を入れることに。毎年3月11日に、早稲田大学で追悼企画のイベントを開催します。そこで、気仙沼市の現状を東京の人たちに伝えるイベントをやっていますが、まずは、それを継続していこうと準備をしています。
復興を、地域の力・再生につなげるために
― お話を聞いていると、皆さんいわゆる「ファーストペンギン」なんだなと感じます。想いを強く持ち、最初に飛び込む人ですね。そこから復興をさらに進めるためには、意識やアクションを広げていかないと、地域の力、再生になりません。広げ るために、どんなことをしていますか、あるいは考えていますか?
菅野 「こうふく通信」でいうと、創刊当時は、わたしとひとつ下くらいの年代は、福島の農産物の風評被害を払拭したい想いで活動をしてきました。でも、現役の高校生は、震災当時、小学校の中学年くらい。当時の記憶があまりなかったり、風評被害を身近に感じていない世代になっています。
彼女や彼らのモチベーションは何かというと、自分の地元について、もっと知りたい。地元の魅力を発信したいところにきています。東京で、福島の農産物を売るマルシェがあると、とても好評です。ありがたいことに、風評被害もだんだん収束してきているところもあるようで、それが現役の高校生の気持ちとリンクしてきていると感じます。
― 震災を実感として知らない人たちに刺さるコンテンツが必要で、それが、結果的に復興につながっていくと。
菅野 そうですね。郡山に関していえば、被災地ではなく、一地方都市の立ち位置にきているのかと感じます。二拠点居住、関係人口という言葉がありますが、地域の魅力を発信して、「ふるさと」に選んでもらえるかというフェーズに来ていると思います。
小松野 広めること、伝えること、ほんとに課題です。地域と関わり、自分の故郷を知れば、郷土愛が芽生えて、それがいい方向に行くのではないでしょうか。同世代に会うと、「すごいね」「偉いね」と言われますが、あきらめずに、言い続けています。地元の祭りだけでもいいから、帰ってきてほしいという希望があります。活動している「三陸ひとつなぎ自然学校」では、子どもたちへの授業をやっていて、釜石のよさを伝えつづけたいです。
北村 大学生の震災への関心でいうと、チームに興味を持ってもらえない一番の原因は、若者の視野が狭いことです。たまに会う友人は「まだボランティアやってるの?」「やることある?」と言います。でも、実際にはまだまだですから、その視野の狭さは、どこから来ているのか。だからこそ、ぼくたちのチームは、東京で人数も多い大学で、それぞれがいろんなネットワークを持っているので、そこで広めていければと思っています。
また、早稲田では、他にも、陸前高田や釜石にボランティアに行っているチームがあります。他の大学にも、同じような団体がありますが、交流会をすると、企業の助成が終了し、現地へ行けなくなったり、つぶれた団体もあると聞きます。ぼくたちが頑張って、成功例、ロールモデルになれないかと思っています。NPOはたくさんあるけれど、大学生のボランティア団体は少ないので、そこを増やしていければと思います。
― 大学生の関わりが増えれば、大学同士の連携もできそうですね。北村さんは、高校のときの熱量は変わらないですか?
北村 大学に入ってから増しています。何もしないよりも、現地で活動して、少しでも貢献できている感覚が得られると嬉しいし、活動の原動力になって、また行きたくなる。第2の故郷みたいな感じです。
― 最後にこれからの抱負、夢は?
菅野 地元に住んで、どうしたら貢献出来るかということばかり考えていたけれど、地元から離れる視点も持つようになりました。緩やかな関わり方のできることも気に留めながら、大好きな郡山、福島と関わっていきたいと思います。
小松野 今年(2019年)から社会人になります。どんな仕事か、まだわかりませんが、いままで関わってきた団体との関わりを続け、釜石だけでなく、岩手全体を盛り上げていきたいと思います。
北村 ぼくには、復興支援に関わらず、人生の壮大な夢があります。以前から日本では、地方創生といわれてきているのに、できないまま何十年。東北は、震災で、通常の地域の衰退の何十年も先に行ってしまったという人もいます。東北の震災復興は地方創生だと思っているので、夢としては、地方創生を成し遂げたい。職業としてやるかどうかはわかりませんが、その視点も含め、関わり続けていければと思います。それには、地元の人だけでなく、外の人の視点も絶対に必要だと思っています。
― 故郷はそれぞれのなかにあり、震災によって日本人がひとつになったとき、日本が故郷だとの想いを強くした人は多いのではないでしょうか。人がつながり交流することで、被災地の再生と、日本の未来への地域づくりが重なります。
皆さんと被災地の縁がつながり、各地域に元気な産業が興り、課題先進地域になった東北が、日本を牽引するモデルになれるようがんばってください。
きょうはありがとうございました。
【モデレータ】
公益社団法人日本フィランソロピー協会
理事長 高橋陽子
 
(2019年1月15日 公益社団法人日本フィランソロピー協会にて)
機関誌『フィランソロピー』No.390/2019年2月号 特別鼎談 おわり