連載コラム/私の視点・社会の支点
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大きな幸せ・小さな幸せ
壁と卵
最近、「村上春樹雑文集」という本を読みました。この本には村上春樹さんが数々の文学賞を受賞した時の記念スピーチなど、70篇ほどの文章が収められています。2009年2月にエルサレム賞を受賞した時の有名なスピーチ「壁と卵」も掲載されています。そこには『我々はみんな一人一人の人間です。システムという強固な壁を前にした、ひとつひとつの卵です』『もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます』と述べられています。世界には戦争やテロのために身の安全もままならない地域や格差・貧困問題に苦しむ地域、原発事故の恐怖に怯える地域などがあります。「壁と卵」はこのような個人では対処が困難な社会状況の中で、強固な壁の前に立ち尽くす弱い小さな人間に向けられた応援メッセージのように感じます。
今年、日本は東日本大震災という未曾有の大災害に見舞われました。私はそれから「幸福」についてよく考えます。『幸福とは何だろう、どうすれば幸福になれるのだろう』と。被災者もそうでない人も、改めてこれまでの何気ない平和な暮らしに幸せを覚えたことでしょう。平凡でも普通に暮らすことのできる社会、そして「強固な壁」のない社会には「大きな幸せ」があるように思います。
アイロン掛け
「村上春樹雑文集」には、「正しいアイロンのかけ方」という男性雑誌に書かれたコラムがあります。村上さんはアイロン掛けが趣味のひとつだそうで、私も昔からアイロン掛けが大好きです。自分自身でピシッとアイロンを掛けたワイシャツの袖に手を通し、まっすぐに伸びた一本の折り目が付いたズボンをはくのは実に爽快なものです。
村上さんは『シャツを大事にしたいのなら、干すのも自分でやった方がいい。「干す」という作業からアイロンかけは既に始まっている』と書いています。アイロン掛けの同好の士としては全く同感です。いかにシワが出ないように「干す」かでアイロン掛けの仕上がり程度が決まってくるからです。
また、アイロンを掛ける時、『BGMはソウルミュージックが合うみたいだ』とあります。私の場合、アイロンをかけながら淡々と流れるバロック音楽に耳を傾けるのが至福の時になります。さらに村上さんは、『1枚のシャツを十年近く洗って干してアイロンをかけていると、そこにはそれなりの対話のようなものが生まれてくる』と書き、最後に『固い理屈は抜きにしても、アイロンかけってやってみると結構面白いから』と結んでいます。
この一文を読んで、アイロン掛けを面白いと思っていたのが自分だけではないことがわかり、ホッとしました。私がシニア男性向けのセミナーでお話をするとよく尋ねられることが、『定年退職後は毎朝起きてから何もすることがなくて困っている』という質問です。そこで私は決まって、『朝起きて天気がよければシーツなどを洗濯して、夕方にアイロン掛けをしてはどうでしょう』と答えます。私たちの何気ない日常生活には幸せになるヒントがたくさん隠されています。豪華客船で世界一周なども素晴らしい体験ですが、身の周りにある「小さな幸せ」を見つける感性が何よりも大事なような気がします。